感情を書き留める

人間誰しも鬱っぽいところはあるというか、わたしが鬱っぽいだけなのか、そういう時期なのか、過渡期なのか。
理由はなんにせよ、この頃わたしはとにかく鬱になりやすいです。

一時期は、そういう鬱っぽい感情を、いちいち人前に晒すようなことはしない、と決めていました。黙っておこうと。

ネット上にそういう感情の言葉を投稿するとき、誰かに慰めてもらおうなんて気持ちはないのです。慰めを乞うのはおこがましいと思うし、わたしは誰かが慰めてくれたら、それはそれで惨めな気持ちにもなります。強い姿だけ見せているほうがかっこいいです。

 
ですが、最近は晒しても良いかな?と思い始めています。なぜそう思ったかというと、理由は二つあります。

ひとつめ、人に説明できると、感情と距離を取ることができる気がするからです。

感情に流されるか、上手く付き合えるかというのは、その距離感が決め手ではないでしょうか。感情を人に説明しようと思い、言葉として切り離した時点で、感情と自分自身の距離を取ることができるのではないか…と、思っています。

たとえば。今なんとなく嫌な気分だとして、湧き上がってくる嫌な感情を、そのまま感じているのは、そういう状態でしかないです。

そこから一歩踏み出して、誰かに説明するつもりで「なんか気分悪いんですよね、今朝嫌な夢見たからずっと気分悪くて、それはこんな夢でした」と言葉にすれば、「あ、わたしは嫌な夢見たから気分悪いのかーふーん」と思えるわけです。

言葉にしたらその言葉は一仕事はいったん終わりで、Twitterなりブログなりに投稿するかどうかは、そこまで大事ではないです。適当な基準でもって、投稿しています。
いや、だったら説明することを想定して全部自分用に書けばいいだろ、って話ですよね。もちろんそういう自分用に書いた文章もEvernoteとかにどんどん貯まってはいるのですが、こうして、他人に見せる用に書く文章と、自分用の文章は全然違うのです。なんでかな。

これ、はあちゅうさんの言う「自分への取材」とある種近いような気もします。わたしは感情に対して、自分で自分に取材をしているような。配信とかでどうでもいい話をするのも、こんな気分です。自分の整理のために誰かに口で説明しているとも言えるかもしれません。

他人の力を借りて自分が整理されていく。 ありがたいです。ありがとうございます。 

人に鬱っぽい感情を見せてもいいと思っている、ふたつめの理由は、
そのとき感じている感情を切り取っておきたいと思うからです。

わたしも一応、腐っても音楽家なので、鬱な気分も嫌な気分はじめ、いろいろな感情を芸術として、ちょっとは生かせる立場にいます。人生、鬱な日ばかりではないと思うので、これを素材として、採集しておきたいのです。

このときは完全に、良くない感情に飲み込まかけている自分を切り取っておこう、と言う気持ちでした。
だから読みやすい文章とかではなく、書きたいように書いていて、それが我ながら上手く切り取れていると言うか。誰が読んでもそう面白いものではないのですが、上手く切り取れているという面は、自己評価高めです。内容はともかく。


ま、これを使う日が来るかどうかはわからないけどね!またね!