「下手」は演じる意味のある要素
このごろ、毎日ではないけれど毎日のように、何か観に行っています。 先日、舞台を観て思ったことを、ちょこっと書いておこうかと。 パラードという舞台を観に行きました。 肝心の本題、新作のパラードは、スタイリッシュな演出のサーカス、といった感じ。 笑いを誘ったかと思えば、すごい動きに驚かされたり。楽しいひとときでした。 音楽は、前半がダッカブラッカという民族音楽グループ。 後半はマティアス・ピンチャー指揮、アンサンブル・アンテルコンタンポラン。👏 pic.twitter.com/Ps0ERpUxRT — オーノサエ (@sae_ono) September 13, 2019 超絶技巧のパフォーマンスに、かっこいい演出と、音楽を添えたものです。客席からは何度も、拍手とどよめき、それから笑いが起きていました。楽しかったです。 なかでも、わたしが一番心に残っている場面があります。普通の青年とパフォーマーの女の子が、舞台装置で遊んでいる……という場面です。 ( Arte Concertの録画から ) この青年を演じている人も、普通を演じているだけで、パフォーマーです。この直前も、踊ってましたし。 でも、盛大に転ぶ。何度も転ぶ。 なにより、とても美しく転ぶ。 この場面はほんの2分間ほどで、舞台全体を見れば大した場面ではないのかもしれません。 でも、舞台にいるふたりは笑っていて、思いっきり楽しんでいるように見えて。とても美しくて、かっこいいなと思いました。 漫才のボケは頭が良くないとできない、というのは、ときどき聞きます。 下手な演技は上手くなければできない、というのも、それに近い気がします。 ボケが笑いを生むための、大切な要素だというのと同じように、「下手」は、場面によっては演じる意味のある要素、だということ。それがなんだか、とてもいいなと思ったのでした。 現在進行形で「下手」な人、演技ではなく本当に下手な人、わたし含めて、たくさんいると思います。 理想とは遠くかけ離れている現状に、悲しくなることもあります。そんなとき「成長の過程が大切」だとか、さまざまな励ましの言葉も、虚しく響くばかりです。 この現状も、演じがいのあるものだと思えたら。成長の過程だって、楽しんだり、大切に思えたりする...