「下手」は演じる意味のある要素

このごろ、毎日ではないけれど毎日のように、何か観に行っています。
先日、舞台を観て思ったことを、ちょこっと書いておこうかと。

パラードという舞台を観に行きました。


超絶技巧のパフォーマンスに、かっこいい演出と、音楽を添えたものです。客席からは何度も、拍手とどよめき、それから笑いが起きていました。楽しかったです。

なかでも、わたしが一番心に残っている場面があります。普通の青年とパフォーマーの女の子が、舞台装置で遊んでいる……という場面です。

Arte Concertの録画から

この青年を演じている人も、普通を演じているだけで、パフォーマーです。この直前も、踊ってましたし。

でも、盛大に転ぶ。何度も転ぶ。
なにより、とても美しく転ぶ。


この場面はほんの2分間ほどで、舞台全体を見れば大した場面ではないのかもしれません。
でも、舞台にいるふたりは笑っていて、思いっきり楽しんでいるように見えて。とても美しくて、かっこいいなと思いました。

漫才のボケは頭が良くないとできない、というのは、ときどき聞きます。
下手な演技は上手くなければできない、というのも、それに近い気がします。

ボケが笑いを生むための、大切な要素だというのと同じように、「下手」は、場面によっては演じる意味のある要素、だということ。それがなんだか、とてもいいなと思ったのでした。

現在進行形で「下手」な人、演技ではなく本当に下手な人、わたし含めて、たくさんいると思います。

理想とは遠くかけ離れている現状に、悲しくなることもあります。そんなとき「成長の過程が大切」だとか、さまざまな励ましの言葉も、虚しく響くばかりです。


この現状も、演じがいのあるものだと思えたら。成長の過程だって、楽しんだり、大切に思えたりするかもしれません。
たとえこの先上手くなっても、「下手」は演じる意味のある、ひとつの要素なのですから。