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些細な失敗を指摘されて死にたくなったときのトラブルシューティングの一例

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はじめに この記事はわたし個人の、 ほんの些細な 死にたさについて書いています。 わたしは専門家ではありません。 現在は数か月間にわたりうつを改善するためのお薬を飲んでいて、マイナス思考に振り回されることも減ってきました。ここに書いたことはそういう状況下で起こった思考の過程なので、参考になるかもしれないし、ならないかもしれません。 死にたさの内訳 小さな失敗を他人に注意され、自己嫌悪によって死にたくなった場合。 失敗のレベルが大したことはない小ささのはずなのに、自己嫌悪は相当な大きさとなって死にたいという状況。 まってくれ、そのくらいで死ぬな。生きろ。落ち着いてくれ。それはバグだ。 今回のケース 大家「また昨日寝るときに電気を消し忘れていましたね?忘れないようにしてください、お願いします」 サエ「すみませんでした」 サエの心の中での反応 (信頼を裏切ってしまった。死にたい…) (寝落ちしないように気を付けなければいけないのか、寝落ちはコントロールできないのに…死にたい…) バグを見つけよう サエの心の中での反応を見て、バーンズによる10つの認知のゆがみのなかから、当てはまっているものを考えよう。 当てはまるのは すべき思考 「失態によって大家を失望させてはいけない」 「寝落ちしないように気を付けなければいけないのか」 拡大解釈 「電気を消さずに寝たことを指摘されるなんて大失態だ、信用を失ったに違いない」 行き過ぎた一般化 「電気を消し忘れたから嫌われる、死にたい」 個人化 「失敗したのは自分のせいだから死にたい」 レッテル貼り 「わたしはダメなやつだ」 修正してみよう 拡大解釈「電気を消さずに寝たことを指摘されるなんて大失態だ、信用を失ったに違いない」を修正する 修正のあいことば 「失敗は失態ではない。そもそも失態とはなんなのか、電気を消し忘れたことは失態ではない」 「そもそも相手が勝手に信用しているだけなんだから、好きにさせよう」 「信用を1ptくらい失ったところで即刻家を追い出されるわけではない。落ち着こう」 すべき思考「失態によって大家を失望させてはいけない」を修正する 修正のあいことば 「誰にでも失敗はある」 「相手が失望しているのだとしても勝手に失望してるだけなんだか...

言葉が誰かに届く限り

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すごくしんどい時期にTwitterで言葉を吐き出して、誰かの目に留まって救われたことがあります。Twitterに吐き出すことで、誰かが飛ばしたやさしい言葉に目が留まって、その言葉に救われたりもします。言葉は強いです。 そういう経験があるからこそ、「生きてるだけで偉い!」とか、そういうことをときどきつぶやいています。救われた経験があるから、誰かに届けようと思って、送信ボタンを押します。 それを良いと言ってくれる人がこれまで数人いたから、だから、そういう言葉が必要だという気持ちが、より一層強まりました。(鬱陶しくてたまらない人には迷惑な話ですね) 言わないだけで、見ていないだけで、必要としていた人もいるかもしれません。何回でも、何回でも、くどいと思われても、わたしは言い続けたいです。それはずっと続くのかもしれません。悲しいけれど。 * 漫画家のさくらももこさんが亡くなりました。またTwitterのトレンドに名前が上がり、死を惜しむ声が、たくさんありました。 色々な人が彼女の作品や、彼女の人生や、色々なものに思いを馳せて、感謝の言葉をつぶやきに乗せていました。でももう、それを彼女が見ることはないのですよね。だから「生きているうちに」というつぶやきも、いくつか見ました。 多くの人の心に残る作品を世に送り出して来た偉大なクリエイターの訃報に接するたびに思うことを、今回も実感する。 作品への愛情や作者への感謝は、生きているうちに、届くうちに。 — たられば (@tarareba722) 2018年8月27日   特別な思いを持ってさくらももこさんの作品の一部分を心に綴じている人たち、訃報に触れてそれを公開して、感謝の気持ちを表していて、今日が誕生日だったらよかったのに、誕生祭だったらよかったのに、なんて思います。 * わたしは彼女の作品にこれまでそれほど興味を持てずにいました。今知って、もっと早く知りたかった、と思っています。 すてきな作家だということを知れなかったと思う理由はふたつあります。ひとつは自分が興味を持っていなかったということ。もうひとつは、普段からこうやって発信してくれる人に出会わなかった、ということ。 きっかけさえあれば発信する人がいるのに、きっかけが作者の死って、寂しすぎます。 沢...

「自分への取材手帳」を、メモ書き習慣の入り口に

「自分への取材手帳」とは、ブロガー・作家のはあちゅうさんがプロデュースする手帳です。今年12月に発売予定とのことで、Facebookのユーザーコミュニティ、動画配信サイトでのオンラインワークショップがスタートしています。 なぜわたしが、そんな柄にもなくキラキラしたものに手を付けているのか。なぜなら、わたしもそのユーザーコミュニティへ参加させていただいているからです。 きっかけは、はあちゅうさんのこのツイート。情報少ない。 12月発売の「自分への取材手帳」のユーザーコミュニティ始めました。(無料です。)手帳好きの方、SHOWROOMでの手帳朝活に参加される方、申請ください~。 https://t.co/T0luGcDmn1 — はあちゅう (@ha_chu) 2017年10月19日 オンライン上で人が集まっている場所とは一体どのようなものなのか、興味本位と手帳好きという気持ちが五分五分で、勇気を振り絞って初めてこういう場に飛び込みました。入ってみるとびっくり、すでにたくさん書き込みがされていて、ちょっと背筋をしゃきっとさせました。 おそらくメンバーの大半がはあちゅうさんファンです。わたしもはあちゅうさんのことは好きですが、それほど熱い想いみたいなものはなく、相容れない感じもちょっとあります。 でもそんなこと気にせずに居座っています。そういう人がいたって、いいじゃないですか。 このサロンに入ると、発売前のページをお試しでダウンロードできます。せっかくなのでわたしも使い始めました。   忘れそうな事柄を、紙の上に #自分への取材手帳 はじめました。自分の思考って空気みたいなもので、書き出そうとしても見過ごすことが多いのです。いたって普通な項目が、忘れかけの事柄を紙の上に繋ぎとめてくれそう。ちょこちょこ続けてみます。 pic.twitter.com/J5xTYLvHHb — SaeONO🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年10月31日 質問の内容は、特に画期的なものではなく、といっても、ぼーっとしていたら見逃してしまいそうな事柄。レストランにあまり行かないので、食べたかった食べ物も忘れていました。なるほどなるほど…。 みんなで一緒に、がたのしいらしい この手帳、まだ詳細が発表されておらず、...

わたしが考えるフランス語と日本語の違い3つ。

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海外で暮らせば自然とその国の言葉が話せるようになる!…とは言いますが、真面目に勉強している人は日本にいても、喋れるんですよね。環境を変えれば多少は理解できるようにはなるけれど、読めなくても話せなくても、生きていけます。 わたしはまさに今、うまく話せないもどかしさを持って生活しています。きょうは、フランス語がうまく話せない現状で感じる違い、話す時に気を付けていることを3つ書きます。   おそらく、他の外国語学習者の方にとっても、いたってふつうのことなのですが、わたしなりに書かせてください。 そろそろ真面目に勉強して、この気づきより先の場所に進みたいのです… 1.日本語はあいまい 日本語は省いている言葉が多いです。 「行きたい!行こうよ!」みたいな単純な表現でも、フランス語に直すには、いろいろな言葉を付け足さないといけないのです。 「Je veux y aller! On y va !」になるのかな。私はそこに行きたい、私たちはそこに行こう、と言う意味です。(ちなみにOn y vaは英語のLet's goみたいな使われ方をします。) これは単純な例ですが、日本語とフランス語では根本的に違う表現が沢山あります。なので、思ったことを日本語の文章にして、それを直すことが難しい。思ったことを、そのままフランス語にしなければならないのです。 とはいえ、日本語のように曖昧な表現ではなく、ストレートに言えるのは、フランス語のいいところです。わからないときも、わかるときも、とにかく単純に反応していかなければなりません。日本語で知っている表現があっても、それを訳そうとする必要はないのです。まずわかることを、言う。 2.発音が違う 日本語は発音を極力単純化している言語だと思います。 「行きたい」を「いきたい」「ゆきたい」と二通りのかなで書いても理解できるように、本来はたぶんいろいろな種類があったのでしょう…。 フランス語には鼻母音という特殊な発音があり、これが難しかったり。 LとRの発音、GとJの発音、EとUの発音が、ごちゃ混ぜになりやすかったり。 それぞれ、きちんと使い分けなければ、伝わりません。 カタカナでは表せない発音が多いのです。なので、発音も極力カタカナで書き表すのではなく、直接その音で覚えたいところです。 ...

いい「配慮」ってなんだろう?

ときどき読むようにしている記事があって、その紹介というか、そのことについて。 わたしがこの記事をEvernoteにクリップしたのが2015年なのだけど、この記事自体は2013年の記事だったの、今日まで知らなかった。 ■24時間テレビにナメられてしまっている障害者の現在地 | Plus-handicap https://plus-handicap.com/2013/08/1569/ 障害者の世界はナメられています。「どうせ障害者っていろいろなことができないんだろう」って考えられていると思います。そんなこと思ってないよと言って下さる方もいると思いますが、残念ながらマイノリティ。多くの方々には障害者に対する固定観念が存在しています。私自身、その中に含められるのは、大変遺憾です。 その人が挑戦する可能性を徐々に狭める配慮 専門外なので詳しくはないが、 認知症の方はできることがどんどん狭まっていくけれど、少しでもできることを取り上げていくとできることすらできなくなってしまう、だからできることは時間がかかってもやってもらう、というアプローチの方法がある。 認知症のような症状と障害は広い意味では一括りにできるのかもしれないけれど、たぶん違う。 でも生きていれば誰でも、老いていくにつれて、できないことが増えていく。 障害でも老いでも共通することは、できることに目を向けて、それに対してどうにかすること。 できることを増やす、 できることを維持する、 という、二つの方向性があるはずだ。 障害者という括りに入れられている人の大半はきっと、できることが増えていく立場の人だ。 できることを増やす側の人も、維持する側の人も、周りの配慮で可能性が取り上げられないようにならないといけない。 周りの行き過ぎた配慮はその人のできることの範囲を徐々に削る。 バリアフリーにすることだけがすべてではない。 できることを増やす、維持する配慮があっていい。 ・・・・ 壁にぶつからせない、という配慮を、もうすこし広い目で。 あと、 軽いものも含めた精神的な障害の部分でいえば、 まわりの配慮さえあればうまくやれる、みたいな人は多い。 まわりの適切な配慮を受けるために、病院へ行った...

読書メモ / はあちゅうさんの本を読みました。

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Kindle unlimited を漁りながら、はあちゅうさんの本で、読み放題対象になっている本を読みました。 「「まいっか」が夢をダメにする:月間はあちゅう(2017年1月)」 これは、はあちゅうさんのエッセイをまとめた本。日々の細やかな気づきなど綴られています。 内容や口調もいたって普通でありながら、自分はこういうことを見過ごして生きているのかと思うと、はっとする。 「自分らしく過ごせば疲れない」 というコラム。 内容ははあちゅうさんがテレビで見聞きした、旅行を疲れなくするための方法です。 でも、そこから発想を広げて、はあちゅうさんの意見が付け加えられている。見聞きしたことで得るのははただの知識だけではないのだと思い知らされます。 「今日から人生を変えるためのエンジンになる本」 こちらは、さまざまなサイトでのはあちゅうさんの文章の、おいしいところをまとめた本。 はあちゅうさんの視点や心がけていることを覗き見しているような気持ちで読みました。 キラキラした世界って 、実はたいしてキラキラしてないんですよ (笑 ) 。多分眩しく見えるものって 、自分にとってのコンプレックスみたいなものだと思うんです 。全部自分へのブ ーメランなんですよね(No.485) 光と陰みたいなもので、それがキラキラしているかどうかは、誰が見ているかによるのだということ。 でも 、自分に確たる実績がないと 、仲間とは思ってもらえません 。だから 、自分のいる場所で 、自分のやるべきことをやる 。それが 、まわりまわって人を呼んでくれていると思います 。(No.552) 会いたい人や尊敬している人に会うことは、案外簡単。でも、仲間にしてもらえるかどうかは別。 そういう人が自分を仲間にしてくれたら、もっとできることも増えるし、成長もできる。 そのためには、自分が自分の場所でやるべきことをする。実績を作る。 はあちゅうさん、人としてしっかりしているので、わたしもまずそこから変えていこうと思いました。 わたしは最近はあちゅうさんのTwitterをフォローして、いろんな本を書いていらっしゃることを知り、ご著書を読もうと思ったところでした。 文章ひとつひとつが、なんともないよ...

挨拶と接客用語

フランスでおよそ1年過ごしてから、日本に帰ってきて数日。 フランスではレジ打ちの人、駅や電車でちょっとぶつかりそうになった人、道ですれ違う時に目があった人にも、ひとこと、挨拶をするのがふつうでした。 でも、日本ではそういう、赤の他人と目を見て挨拶をすることがない。一年前までは日本で暮らしていてこれが普通だったのに、なんだかとても違和感があります。 (しょっぱなからこんなことを言っている私も、もともとは挨拶が出来ない人でした。今もまだ、上手に挨拶が出来ないことが多い。フランスに来てちょっと挨拶できるようになってきたので、この調子で喋り下手も克服できたらいいのですが) フランスだとどうなのか、というと、店員さんはちゃんと目を見て挨拶してくれます。わたしも目を見て挨拶します。 お店に入ったらまず Bonjour.お会計するときもレジ打ちさんとBonjour.会計が済んだらMerci.Au revoir Bonné Journée.(ありがとう、さようなら、良い一日を!) というような、口に出す内容はおおかた決まっているのですが、こんなあいさつをします。 で、挨拶をしない人が不審。 日本でも店員さんは挨拶するよね?と思われるかもしれません。でも目を合わせなくても聞こえてなくても、一方的に唱えれば、形式的には良しとされます。 日本には接客用語がある。これが、一方的な言葉だからやりとりが成立しにくい要因かもしれません。 いらっしゃいませ!と言われたら、なんと返せばいいの? ありがとうございましたーまたお越しくださいませー!と言われたら?返すのは「ありがとうございました」でいいのかな? はじめからお客さんが言葉を返すことが想定されていない言葉。やっぱり、「お客様は神様」なんですね。 お客様は人間じゃないし、福の神かもしれないし疫病神かもしれない。人を人だと思わないことで、お互いに傷付くこと避けられるのかもしれません。 日本人は知っている人には親切です。親切すぎるくらい。だから、知らない人のことは割とどうでもいい。 どうでもいい人とのやりとりを形だけでも丁寧にするために、接客用語があるのかもなあ。 とはいえ、形式だけの無駄な丁寧はむなしいものです。コンビニの店員さんのすごい早い手さばき、って必要...

読みやすい文章の書き方を考えている

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自分の文章を読み返して、これ読みにくいな…と思っています。 文章の書き方や言葉の使い方について書かれた本を参考にしながらどこが悪いのか考えてみました。 参考にしたのは、この3冊。 ・高橋恵治著「本を書きたい人のための文章の基礎技術」 ・木村恵一著「ストレスゼロの伝え方」 ・芝本秀徳著「誰も教えてくれない書くスキル」 意識していながらできてないこともありますが、自分の意識が薄かったところを箇条書きにします。 ・文が長いと読みにくい(→文を分ける) ・意味が多い(→一つの文章に一つの意味に絞る) ・自分と違う背景で読む人のことを意識する。 ・下調べを入念に行う ・読みやすい流れを意識する ・引用された文章はその原典をあたる ・推敲して余分な言葉を省く ・思う、考える、を多用せずに言い切る ・熟語動詞を使わない(開催する→開く など) ・曖昧な表現を避けて具体的にする。 ・文中で言い訳しない ・書く前に「要するに何を言いたいのか」はっきりさせて、考えてから文章を書く。 ・文章の構成を整える ごめんなさい。これから意識して直します。 これは読みやすくなりそうだと思ったアイデア。 ・5W1Hに、Worth(価値)という観点を付け加えて、読み手に価値がもたらされるか考える。 ・複眼的思考(自分の意見と反対の意見も併せて述べる) ・文末に変化を持たせる。(~です。~でした。~でしょう。など) ・小見出しだけで全体が把握できるような、小見出しの付け方をする。 ・伝えることではなく、相手に伝わることに重きを置く ・自分の言葉で伝える相手の頭の中を整理する。まずはじめに、伝える目的を伝え、そこから深めていく。 ・ストーリーをつかうことで、心が動きやすくなる。 ・相手に高揚感を与えることを意識する。(単調なものはつまらない) ・綺麗な文章を書く人がどうやって文章を書いているのかを盗む。 ・一度書いたものを捨てて、もう一度書く がんばります。 「本を書きたい人の基礎技術」は、細かい部分が多めです。国語的な部分。 それに対して、「誰も教えてくれない書くスキル」は、文章の組み立て方に焦点が当たっています。 ...

読書メモ / 森本恭正「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」を読みました

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森本恭正さんの「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」を読みました。 日本人は農耕民族だから拍の取り方が重いとかのっぺりしてるとか、いいますよね。 私も、ビッグバンドにまぜてもらっているときなんかは、そういう話を耳にしました。ジャズの先輩から、黒人の人はそもそも歩き方にすらスイングが備わっている、そもそも違うんだと言われて、なんとかしたいと思い続けていました。 そして、そんなときは、クラシック音楽とポピュラー音楽の拍の取り方の違いとして、表拍・裏拍の重さの違いを述べられることが多かったような気がします。 この本、話の発端は森本さんが「日本人の演奏する西洋音楽」へ疑問を持つところから。 ロックミュージシャンの裏拍が重いことを発見して、ロックだけではなく、そもそも西洋音楽、ヨーロッパのことばが裏拍に重きをおいているということに気が付きます。 さらに、そもそも楽譜を見て再現していると思っていた自分たちの演奏や解釈は正しかったのか?、作曲家はどういう意図で新しい表現を作り出してきたのか?というところを突き詰めていきます。 わたしが前半のおもしろいと思ったところ。 調性音楽が何を表しているのか?調性から脱出をした十二音音楽はどういう意識があるのか?という部分があるのですが、ここです。 ドミナントとは英語で書けばDOMINANTEDつまり「優越している」ということに他ならない。では何に対して優越しているのか?それは主和音以外の他の全ての和音に対してだ。では、何を以て優越しているというのか?それは、このDOMINANT和音だけが特権上に主和音に進行できることを以てして、である。この、ドミナント=優越、という言葉が印象的に示しているように、調性音楽において、一つ一つの音は平等ではないのである。ではその頂点に立つ、主和音の中の一番大切な音、ドミソのドの音、即ち主音とはなんだろう?神だ。キリスト教的世界観において。(no.659~) 私は実際、ドミナントの意味ってわかってなかった。 しかもドミナント→トニックという何気ない流れから、キリスト教的世界観が導かれるのが、納得できるけれど、衝撃である。歩き方だとか民族性とかいろいろあるけれど、本当に色々な部分でもって、西洋音楽と西洋の人は結び付けられているの...

本当に「借りた本より買った本」なのかな?

誰かに、この本にこんなことが書いてあった気がするよー、と話すとき、だいたい買ったことのある本なんですよね。 大学で借りた本の一部分に何かすごく面白いことが書いてあったとしても、それが図書館の本棚のどのあたりに置いてあって、何色の表紙で、どのくらいの分厚さだったかは覚えていても、具体的な本のタイトルや著者名は全く覚えていなかったりする。高校生の頃に読んだすごく良かった小説を思い出しても、そのストーリーはだいぶ覚えているような気がするし、表紙の色がピンク色と紫色みたいな色でだったことは覚えている。でも、タイトルが全く思い出せない。 お金を出して買うと、思い入れができるからいい、って言うけど、たしかにそうだと思う。 でも、じゃあ、図書館で読んだ本は、なんなんだろう? プログラムノートを書いたり、何かの資料にしたいときは、部分的にしか読まないから覚えていない。 それはそう。でもそうじゃなかった本もあるはずだ。でも、やっぱり、覚えてないんだよね。 このことからわたしがわかることは、人間ほっとくと忘れてしまうから、なにか気に留まったときに記録しとくべきだということです。 いまここでブログにだらだらと本を読んだメモを書いている。それが、後からあれなんだっけなー、というときに役立つかどうかはまだわからないけど。 そもそも買った本は手元にあるからタイトルなんて忘れてても、すぐ見つけられるってだけなのかな。 おしまい

ちゃんときいてる?

フランス語のvoirは見ると会うの意味があるけれど、日本語の「みる」だとvoirとregarderがあって、 日本語の「みる」だってそりゃ違うときもあるだろうけど、voirが見る、regarderが観る、みたいな違いなのかなと思って理解している。 英語のseeとlookのような違いだと思うと理解しやすいのかもしれない。 それで、この記事のテーマは、ちゃんときいてる?だけど、日本語もフランス語も「きく」には種類がいろいろある。 「音楽を聴く」はécouterだし、聞こえてくる、耳に入れるのはentendreだ。 「なに言っているのかよく聞こえないよ!」というときはentendreで、「J'entends pas!」っていう。わたしもこれは駅で友達と話すときとか、電話が聞こえにくいときによくつかう(ごめんね)。 さらにさらに、ちゃんときいてね!というときは、regarderをつかう。「regardez-moi!」みたいな感じで先生が使っているのを聞いたことがある。これは日本語にはなさそう。 …と思っていたのですが。regarderには注意をひく、という意味があるらしくて、そうなんだ~!と思っているところです。 話がそれますが、そもそも「みる」も「きく」も日本語にだっていろいろな意味があるんですよね。 「見物する」とかも見るだし、「診る」「看る」とかもある。たしかに目で見てるけど、これはちょっと意味が違う。 「訊く」これはほかの「きく」とは日本語でもだいぶ違う。訊くことはフランス語だとdemanderになって、つまり教えてほしいという要望になる。 「利く」はちょっと違うな、ここまでくると耳とはどんどん離れていく。 それをさしおおいても、やはりフランス語だと実際に目でみること、きくことに限っても、日本語よりもずっと意識の度合に焦点があてられている。みんな小さい頃からはっきりと区別して使っているんだろう。日本語は音が同じだから大人になってから違いが判ればいいくらいの超やさしさ設計だ。どちらがいい悪いとかじゃないんですよ。 ここまでが前置き。 夕方、日が暮れていくときは、ゆっくり暗くなっていくので、たいがい部屋の電気をつけることを忘れている。 水が飲みたくて冷蔵庫から水を出して、透明...

読書メモ / ちきりん「『Chikirinの日記』の育て方 9年間のブログ運営の舞台裏」を読みました。

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ちきりんさんの「『Chikirinの日記』の育て方 9年間のブログ運営の舞台裏」を読みました。 いまいろいろ本を読もうと思っているところなので、kindleが月額定額で読み放題になるkindle unlimitedを登録しました。実はこの読み放題サービスが出た直ぐに無料お試しで試していて、読みたい本がラインナップから消えたりしてちょっと落ち込んで、二か月目以降の登録を更新しなかったのです。 この本は、以前はさほど気にならなかったのですが、わたしもこうしてブログをはじめたので参考に読みたかったのです。もちろん普通に買ってもいいのですが、折角読み放題のラインナップにあるのならと思って、kindle unlimitedにもう一度登録しました。他の本もたくさん読むよ! 壁をつくらない言葉 専門用語や、ネットでしか通じない言葉を使うことで、壁をつくらないことをちきりんさんは心がけているという。 わたしが初めてブログを作った頃は、よく見ているアニメやアニメーターさんのサイトを見て「こういうのやりたい!」という意識が結構あって、憧れている人の真似をしたいというだけのものでした。(それはもう消してしまったけれど…) 大人の仲間入りをしたい!という欲求だったのかなと今では思うのですが、だからあえて「ネットっぽい」感じで書こうと頑張っていた部分もありました。 言葉は言葉自体で棲み分けがあるので、誰に向けて書いているのかを考えて言葉を書けば、その人たちにとって読みやすい言葉になるのでしょう。 逆手に取れば、寄せ付けないこともできる。ギャル文字が流行っていたころ、私自身はギャル文字で書かれたブログはそれほど読んでなかったから。 単語ひとつや話題ひとつとっても、そういうことの積み重ね。 自分の使いやすいほうを選んでいくと、専門用語だったり、仲間ノリみたいなものが増えていくし、仲間ノリが必要なときはそういうものをつかえばいい。 自分の考えを、伝えたいターゲットの人が読めるような、言葉をえらぶべきですね。 自分のスタンスをはっきりさせる ちきりんさんはこの本のなかで、自分がこだわっている部分をたくさん書かれているのですが、きちんと考えて決めている。 でも基本的に、どんな誘惑があっても、ちょっと嫌...

心の拠り所としての読書

ふと、自分は自分の信じたいことを書いてある本を読んで喜んでいるだけじゃないかということに気がついた。 本だけでなく、ネット上の文章でも同じで。 そして、遠からず近からず、似たようなことを言う人の本ばかり読んでいる。 そうやってなにか、「この人もこう言っているし」と考える材料にして、安心しようとしている。 いろいろな視点を持ちたいとは思っているけれど、あくまで自分の考えを補強してくれるものを選んでいる感じがする。 いろいろな人の本を読もうと思っていたけれど、それって、本当にたくさん読まなければいけなくて、果てしないなあ。 もともとたくさん読む方ではなく、同じ本を何度かたまに読み返すくらいだったので、身の回りにいた多読家の頭の中がどうなっているか気になる。読めばわかる?

読書メモ / 猪原敬介「読書と言語能力 言葉の『用法』がもたらす学習効果」を読みました

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またまた、図書館で借りてきた本の紹介を。 猪原敬介さんの、「読書と言語能力 言葉の『用法』がもたらす学習効果」という本です。 さらさら目を通していただけなので、 はたしてこれ読みました!と言えるのか、というと言えない気もするのですけど。 この本は、猪原敬介さんの大学院博士論文を加筆したものです。 読書をすることはいいことだとされているけれど、なんで?じゃあ何を読ませたらいいの?という研究です。 この本は学校教員や保育士など、専門家でない人が読むことも想定して書かれています。 なので、初めて聞くような言葉の説明や例えも、丁寧でわかりやすいです。 しかし私は学校の先生でもないし、専門家でもない人なので、 私のこの記事を読んでも本の内容については殆ど参考にならないことでしょう。 すみません。 読書は役に立つ? 結論だけ抜き出して要約していいのかわからないけど、要約。 読書は言語力を伸ばすために役に立つが、誰が何を読んでも効果的なわけではない。 バランスのとれた言語力がある上で、本人の理解できる範囲のものを読むといい。 (言語能力においてアンバランスなところ、何らかの理由で言葉が上手く使えないときは、読書以前のサポートが必要。読み聞かせも有用かもしれない) 読書は主観的体験を楽しむものであり、それに加えてたくさんの単語と触れ合う機会ともなる。 知らない単語に触れることができ、すでに知っている単語の新しい使い方も増える。 *** あとはこの本の内容の向かうところに関係なく、目に留まったことを抜き出していきます。 「直接的教授」と「用法に基づく学習」(p80~81) 語彙を増やすためには、こんなふたつの手段が考えられる。 直接的教授は、言葉そのままの意味で、親や先生から意味を教えてもらうこと。 用法に基づく学習は、周りの人がどう使うか、によって、その使い方を学ぶこと。 読書をすると、用法に基づく学習がされると説明がつく。 とのこと。 これ、が気になったのは、外国人のための外国語教育に思い当るところがあったからです。 本当にわからない単語はもちろん調べるのですが、日本語にない表現のものはを理解するのは、用法に基づく学習だな...

文章を書くことについて思うこと

今日は、思ったことを書くだけの日です。 オチもありません。 このブログを作るにあたって、どんなことを発信するのかは全く決めていませんでした。 目的としては文章を書くことに慣れたいと思っていたので、当面は毎日このブログを更新することを目標に設定しています。 とはいえ、約一週間自分で文章を書いてみて、正直上手な文章とはいえないなあ。 もっと分かりやすい文章を書きたいなあ。 先日同じ学校に通う日本人の方とお疲れ様会をして、久しぶりに他人と(!)会話をしました。 そこで思ったのは、話したいことをきれいな文章にするのは難しいということ。 私の文章(というより断片的な言葉たち)が、相手に伝わっているかというと、たぶんあまり伝わっていないだろうし。 そもそもこれは言うべき内容だったかな?と話の途中で疑問が浮かんだり。 それから、相手が話していることを、自分の頭の中で再構築するのもまた難しい。 理解しようとしながら返事するのが大変だ。もっとテンポよく言葉を返したいのになあ。 (とはいえ、私は話すことも人と集まることも相当苦手だと思っていたのに、とても心休まるひとときでした。) 今読んでいる本は論文のように、細かい説明がたくさん入っていて、難しいです。 研究の内容を正確に伝えるために、本に書かれていることはどんどん複雑になる。 でも読む人に本当に伝えたいことは研究の結果、出た結論なので、それ自体はシンプル。 正確に伝えるためにはたくさんの説明が必要だけれど、それが日常会話にも必要かというと、そうではない。 さほど重要ではない細かいことを、会話でも伝えようとしているから、受け取る側も混乱するのかなあ。 極端だけれど、日常的な会話や文章で、本当に必 要なことは一言二言くらいしかないのかもしれないなぁ… 主観的に大事な部分はたくさんあるから、言葉がどんどん増えていく。 だから、客観的に情報をそぎ落としていくことが、必要なのかもなあ。

読書メモ / 湯浅譲二×川田順造「人間にとっての音↔ことば↔文化」を読みました

湯浅譲二×川田順造「人間にとっての音↔ことば↔文化」という本を図書館で借りて読みました。 現代音楽作曲家である湯浅譲二さん、人類学者の川田順造さんの往復書簡と対談が掲載されています。 本の内容はお二方がそれぞれの考えに共感しながら、「音楽から見た文化の起源」と「文化から見た音楽」とでもいうような、それぞれの視点をもって人間の文化について語る、というようなものでした。お互いに思い思いに言葉を綴るうちにとりとめもなく話がどんどん進んでいるようかのようで、読み進めるのもも大変で、 読了後も書かれていることすべてを理解できているかというと、できていないです。 以下、本文より私が気になった部分を引用させていただき、思ったことや感じたことなどを書きます。 言葉は音 そのものにも意味を表すの役割があるということ 様々な意味と結びついて用いられてきたこれらの言語音が、その言語を母語とする人々にとって意識されないにせよ不可避に帯びてしまう意味から完全に独立したものではありえないでしょうし、従って異なる言語文化の人は、同じ音感語からの別の感じを受けるでしょう。(p33・川田) やまとことばは言葉の形が単純で、意味が多義的です。例えば「たつ」という音のつらなりで「立ち上がる」、「出発する」、「切る」、それから「時が経つ」。「たつ」という言葉の中にそれらの原初的なものが全部含まれているようなものとしてあったのではないか。それと、表意音に、音の発音とそれが意味しているような感覚が重なっている。「すべる」という動詞と、「すべすべしている」、これも音で感覚を表すものです。(p.134 川田) 川田さんはオノマトペを、聴覚刺激を表現したもの、視覚刺激を表現したものの二つに分けて、さらにその下にも下位分類を作り説明されていますが、音感語は聴覚刺激から出来た言葉を指しているものです。音感語の下位分類としてある表音語は音を直接言葉にしているにもかかわらず、同じ音を表していても言語によって大きな違いがあるとしています。(p32) たしかに犬の鳴き声は日本語ではワンワンで、英語ではbow-wou、フランス語ではouah-ouahだったり。母音を取り出すと確かに似てるような気もするのですが、かつてその違いを初めて知ったときは密かに驚きました。どこ...