鶏肉になってしまった後輩をわたしは助けることができない

わたしの後輩が魔女に鶏肉にされてしまった。魔女はうきうきしながら、その鶏肉を他の鶏肉と一緒に並べる。もうすぐ肉屋が仕入れにやってきて、彼女を連れて行ってしまう。その過程を見ていたのはわたしだけだ。わたしは彼女を助けなければならない。肉屋に連れて行かれたら最後、彼女はきっと誰かに買われ、食べられてしまう。
というのは夢の話、昨日の朝のことだ。一日中、彼女を助けられなかったことが、頭の中でちらつく。現実で彼女は昨日も今日も彼女らしい話題をリツイートして、元気にリプライを飛ばしている。彼女は生きていて、わたしの助けを必要としていない。わたしもまた、魔女と戦う必要はない。

だけどよく考えれば、夢の中であっても鶏肉になった彼女を助ける術はなかった。
肉屋は肉を買って売ることが仕事だ。何も知らないで鶏肉になってしまった女の子を仕入れることを、責めることはできない。彼にだって、彼の生活が懸かっている。
彼女を鶏肉に変えてしまった女は魔女だったけれど、わたしは魔女ではなかった。魔女は魔女として修行をして、努力を積んだ結果魔女になった。売られていく鶏肉を助けるというタイムリミットを考えれば、わたしがその場で魔女になって鶏肉の魔法を解くなんて無理だろう。知識もなければ、iPhoneもGoogleもなかった。
わたしは慌てふためいていた。仕入れのために来る肉屋に、太刀打ちできない魔女に、怒っていた。前述のとおり、それはもうどうしようもないことだ。それなのに。それでも。

わたしたちはどうしようもなかったことに、囚われがちだ。
過ぎた時間、助けられなかった人、言わなければよかったセリフ。起きた出来事そのものに対してできることは殆どない。忘れるか、時間をかけて受け入れるか。それは、自分の内側、捉え方の変化でしかない。
でも、もうすこし先を見てみよう。その経験から学んだことを生かして、自分の行動を変えることだ。
この夢のその先を想像すれば、わたしは魔女に太刀打ちするために、自分も勉強をして魔女になるかもしれないし、今後のために肉屋によりよい仕入れルートを提案するかもしれない。女の子が魔女に見つからないように、安全な環境を整備するプロジェクトを始めるかもしれないし、自分の身を守るために結局何もしないかもしれない。
でもまずは、受け入れることだ。なんにせよ夢はもう終わったのだから目を覚まして、授業行こうね。