好きになれる、とは

こんばんは。


部活動指導に行っている学校で、「○○さんはうまくできないのが嫌で今日欠席すると言っていた」と、聞いてしまいました。

それを話してくれた児童本人もまた、自分はまだできないことがあるから個人練習をやりたくないのだと、何度も何度も力説していました。


わかります。難しくてできないことをやっているときは、あまり楽しくありません。やれる範囲のことは、楽しいけれど。


わたしの指導がもっと上手ければ、もっと自信を持ってもらえるんだろうなあ。もっと練習したいと思ってもらえるんだろうなあ。そう思いながら、自分の力量不足を反省しました。

同時に、もし彼女たちがそこで言い訳をせずに練習できるようになれば、確実に上手くなるのに! と、もどかしく思いました。おやおや、わたしは過去や現在の自分のことを棚に上げて、そんなことを思うなんて。いい身分だな。


結局のところ、「練習したらできた」という、成功体験を積み重ねるにつれて練習が楽しくなっていくように、

どんなことも、好きになれるまでのめり込めなければ、好きになれないようになっているように思います。


そして、深くのめり込むことが、好きになることの入り口だとはわかっていても。大人も子どもも、まだ知らないものに深く潜っていくことには、少なからず恐怖を抱くようにできているようです。

(だって、みんな、できるようになるかわからない練習も、わかるようになれるかわからない勉強も、やりたくないもんね)


どうしてなんだろうな?と考えていました。

思い浮かんだひとつの理由は、めんどくさいということ。言わずもがな。

もうひとつの理由は、深く付き合うほど、離れたあとの喪失感が大きすぎるからなのかな、と思います。


ある著名な音楽家が、引退宣言をした数年後、音楽業界に戻ってきた理由をテレビのインタビューで聞かれていました。その答えは、自分から音楽を取り除いたら何もなかった、というものでした。


わたし自身もかつて、音楽を辞めようと思っていました。そして今また音楽をやっているのは、同じ理由です。自分から音楽を取り除いたら、そこには何もなかった。


打ち込むことをつくるのは、何かを好きになるのは、それくらい、それ以外何もなくなってしまう、空っぽにさせてしまうくらいの威力がある。なんだか恐ろしい。


自分の生徒さんや、部活で関わっている子どもたちには、人生をかけるほど音楽に取り組んでほしいとは、思っていません。

もし人生をかけて取り組むなら、応援したいです。でもそれぞれの人にそれぞれの人生があるのですし、自分の興味の範囲で、それぞれの深さで、無理せずす楽しんでほしいと思っています。


でも、わたし自身は、「無理せず楽しむ」という段階を、とっくの昔に通り過ぎた場所にいました。音楽がなければ、生きられないところに、震える足で立っています。


これをやっていなければ、他の人生があったかもしれない。今からでもこれをやめて、他の人生を考えたほうがいいのかもしれない。

そういう不安をねじ伏せて、今日も静かに、歩みを進めていきたいです。その先に、何かがあることは、この29年の人生の中で、もう充分学んだはずなので。わたしは今日、29歳になりました。