ちゃんときいてる?


フランス語のvoirは見ると会うの意味があるけれど、日本語の「みる」だとvoirとregarderがあって、
日本語の「みる」だってそりゃ違うときもあるだろうけど、voirが見る、regarderが観る、みたいな違いなのかなと思って理解している。
英語のseeとlookのような違いだと思うと理解しやすいのかもしれない。

それで、この記事のテーマは、ちゃんときいてる?だけど、日本語もフランス語も「きく」には種類がいろいろある。
「音楽を聴く」はécouterだし、聞こえてくる、耳に入れるのはentendreだ。
「なに言っているのかよく聞こえないよ!」というときはentendreで、「J'entends pas!」っていう。わたしもこれは駅で友達と話すときとか、電話が聞こえにくいときによくつかう(ごめんね)。
さらにさらに、ちゃんときいてね!というときは、regarderをつかう。「regardez-moi!」みたいな感じで先生が使っているのを聞いたことがある。これは日本語にはなさそう。

…と思っていたのですが。regarderには注意をひく、という意味があるらしくて、そうなんだ~!と思っているところです。

話がそれますが、そもそも「みる」も「きく」も日本語にだっていろいろな意味があるんですよね。
「見物する」とかも見るだし、「診る」「看る」とかもある。たしかに目で見てるけど、これはちょっと意味が違う。
「訊く」これはほかの「きく」とは日本語でもだいぶ違う。訊くことはフランス語だとdemanderになって、つまり教えてほしいという要望になる。
「利く」はちょっと違うな、ここまでくると耳とはどんどん離れていく。

それをさしおおいても、やはりフランス語だと実際に目でみること、きくことに限っても、日本語よりもずっと意識の度合に焦点があてられている。みんな小さい頃からはっきりと区別して使っているんだろう。日本語は音が同じだから大人になってから違いが判ればいいくらいの超やさしさ設計だ。どちらがいい悪いとかじゃないんですよ。

ここまでが前置き。

夕方、日が暮れていくときは、ゆっくり暗くなっていくので、たいがい部屋の電気をつけることを忘れている。
水が飲みたくて冷蔵庫から水を出して、透明なグラスに注ぐ。
薄暗い中で透明なグラスに透明な水を入れると、もうどこに水位があるか意外にも見えなかったけど、よく聞いていると水の注いでいる音がだんだん高くなっていくんですよ。

目の見えない人が、ヤカンに水を入れるときに音で水の高さを調べるというのをきいたことがある。
それを聞いてすぐに家で水筒だとかペットボトルだとかに、蛇口から水を入れる音をきいて高さを調べようと思ったけど、全く持って無理だった。
そのときに目が見えない人たちはすごい耳がいいんだ!!と思った。
(よくよく考えればペットボトルに水を灌ぐのが、わたしにはけっこう難しかったな)

まあ、そんなことはついさっき薄暗い中でグラスに水を注ぎながら耳を澄ませるまで忘れていました。

私の同級生にも目の見えない音楽家がいたけれど、彼は曲の構成を一曲まるまる頭に詰め込んでから、みんなとタイミングを合わせて演奏する。構成だけではなく速さや強弱の変化やら全て、なにもかも覚えなきゃタイミングを合わせた演奏をすることはできないのだから、全体を見通すことも得意になっていったのだろうな、と私は思っている。彼が意識しているかどうかはともかく、きっとそれは彼の強みのひとつだ。

高校生の頃に、乙一さんの「暗いところで待ち合わせ」という小説を読んだ。盲目で一人暮らしをしている主人公が、途中、台所で料理をして大丈夫なのかと心配されるけれど、本人としては何も問題なくやっている、ということが書かれた部分がある。
これはわからないし、大丈夫かどうかは人それぞれなんだろうけれど、最近、私も料理をしていて思うのは、温めればいろんな音がするし、冷たいものは触れるし、慣れればだいたい大丈夫なんじゃないかと思っているところ。

そういう感じで、わたしは日が暮れている薄暗くてグラスの水がみえないところで、そういうことを芋づるのように思い出しながら、考えていた。
いつも、文字や景色や楽譜や台所の料理道具だとか食べ物だとか、お風呂のお湯ひねるヤツとか、見たいものや、目に入ってくる情報をなんとなく処理している。
目から得る情報が占める割合が大きくて、頼りにすることが確実だと思っている。

私も一応音楽やっていて、楽器の状態を見て確かめて、楽譜を読んで、チューナーやらメトロノームやらを見て、いつもいつも目で見ている。
ああ、ちゃんときいてる?というところが気になってきたのでした。自分に対して。
(見ることすべてを否定したいわけではないのです。姿勢とかは上手な奏者の方々の動画を見て、これいいなー、と参考にしたり、これは理にかなってるのか?とか疑ったり、自分の姿勢を鏡に映したり、そういう体の状態を見比べることにつながるし、見ること全てを否定する気はさらさらない。チューナーなんかは、吹奏楽やアンサンブルを極めている人たちには、見るよりも耳で一発でわかるんだろうなあと思ったりしている。)

コップに水を入れる音すら、目で見えている限り気にしないのだから、目が意識に占める割合ってとても大きいのでしょう。
さらにさらに、真剣になろうとするほど、目で見る情報に加えて、頭で考える割合も大きいでしょう。
もっともっと耳をすませなければと思って、自戒のためにこうして記事を書いているのです。

みるにしろきくにしろ、ちゃんとregarderしたいですよね。勝手にしろって?すみません。

おわり。

この本に「きく」や「みる」のように同じ音を持つことばについての記述があり、それについて私が思ったこともほんの少し書いています。
「訊く」は確かに、教えてもらうことの要求ですが、耳を傾けるという意味が一緒についているのがやっぱり便利だなあ。

*私事ですが、遠出のため7月28日まで予約投稿によって記事が投稿される予定です。この記事も予約投稿です。