いい「配慮」ってなんだろう?


ときどき読むようにしている記事があって、その紹介というか、そのことについて。
わたしがこの記事をEvernoteにクリップしたのが2015年なのだけど、この記事自体は2013年の記事だったの、今日まで知らなかった。

■24時間テレビにナメられてしまっている障害者の現在地 | Plus-handicap

障害者の世界はナメられています。「どうせ障害者っていろいろなことができないんだろう」って考えられていると思います。そんなこと思ってないよと言って下さる方もいると思いますが、残念ながらマイノリティ。多くの方々には障害者に対する固定観念が存在しています。私自身、その中に含められるのは、大変遺憾です。


その人が挑戦する可能性を徐々に狭める配慮

専門外なので詳しくはないが、認知症の方はできることがどんどん狭まっていくけれど、少しでもできることを取り上げていくとできることすらできなくなってしまう、だからできることは時間がかかってもやってもらう、というアプローチの方法がある。

認知症のような症状と障害は広い意味では一括りにできるのかもしれないけれど、たぶん違う。
でも生きていれば誰でも、老いていくにつれて、できないことが増えていく。
障害でも老いでも共通することは、できることに目を向けて、それに対してどうにかすること。

できることを増やす、
できることを維持する、

という、二つの方向性があるはずだ。
障害者という括りに入れられている人の大半はきっと、できることが増えていく立場の人だ。
できることを増やす側の人も、維持する側の人も、周りの配慮で可能性が取り上げられないようにならないといけない。周りの行き過ぎた配慮はその人のできることの範囲を徐々に削る。

バリアフリーにすることだけがすべてではない。
できることを増やす、維持する配慮があっていい。

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壁にぶつからせない、という配慮を、もうすこし広い目で。

あと、軽いものも含めた精神的な障害の部分でいえば、まわりの配慮さえあればうまくやれる、みたいな人は多い。
まわりの適切な配慮を受けるために、病院へ行ったり、検査を受けたりすることがもっと気軽にできるといいと思う。軽いものでも。

苦手なことを克服することが、やりたくないほど苦しい作業になっているなら考え物だ。本当にできるようになりたくてやっているならともかく。
苦手なことを助けてもらって、もともと持っている力が発揮できるなら、素晴らしいではありませんか。

(わたしは大学の先生からそう勧めていただいて、検査をして自分は何が苦手で何が得意かを調べてもらった。うまく周りの手助けを求められているかといえばNOだけど、それでも苦手なことは苦手だから他で挽回しようと思えるのは大きい。)

配慮をするときは、できないことじゃなくて、できることに目を向けたい。
この場合の配慮は、壁にぶつからないようにすることだけど、力が発揮できるようにするための配慮だ。

・・・・

ついでに、
できることができなくなる可能性は、健常者側にもある。


上記の記事の中で書かれている、健常者に求められることのなかから、「自分が障害者になる可能性の把握」という観点から、わたしの思うことを書く。
いまのところ、たとえバリアフリー化が進んでいても、できることが当たり前として世界が動いているので、忘れがちだけれど。いまできることができなくなる可能性は、絶対にある。

独り言なのでもうここから下は読みやすさとかほとんど考えていません。すみません。

あした、なにかできなくなるかもしれない。それでも生きている。じゃあ、生きがいだったいろいろなことができないから、しぬの?って話で。耳が聞こえなくなるのと目が聞こえなくなるのとどっちがマシ?耳聞こえないと音楽できないから無理かも~みたいなこと言う人いるけど、そんなの選べることじゃないし、選ぶ時が来たとしてもその時にしか選べないし、勉強できないくせに腕や足がなくなって音楽できなくなっても生きていけると思うの?とか言われたことあるけど死ななければ生きてるだけだよね、音楽できなくなったらまあ死んじゃうのかもしれないけど、わたしもきっと、それでも、生きてる限りはほかに自分のできる新しいことを探すんだろうなあ。

だから変な精神論でごまかしたりせずに、
できることとできないことと、やりたいこととできるかもしれないことを見極めて、
わたし自身も工夫しながら挑戦していきたいです。おわり。