おしり


おしりが好きかどうかといえば好きです。

わたしが「おしり」という単語からまず連想することは、飼い犬のおしりのことです。性的嗜好でも、自分のおしりのことでもありません。
飼い犬は、おしり以外の、頭や、鼻や、背中も同じように愛すべき部位でした。そのため、本来おしりだけ取り上げる話でもないのですが、それにしても飼い犬のおしりは好きです。動物のおしりはかわいいですね。

そもそも、晴れは好きか、雨は好きか、あの奏者は好きか、この曲は好きか、等々、問いかけられる質問のほとんど全てにOuiと答えるわたしにとって、好きかどうかというラベル分けは初めから無いに等しいのかもしれません。

好きなおしり以外は特に興味がないということは、わたしにとって「くすぐりが効くかどうかは、心を開いているかどうか」ということと、似ています。

思えば大学に入学して直ぐのわたしは、かわいげのない後輩でした。誰のくすぐりも効かない、笑わないけど突然泣く、先輩に失礼なことを言うし、挙句の果てに遅刻常習犯でした。ほとんど心を開くことができない日々が続きました。やっと1年生のお盆ごろから徐々に、ここには敵なんていない、と思えるようになりました。
3年生になったあるとき、とある先輩から「さえちゃん、最近笑うようになったよね」と言われ、とても喜んだ記憶があります。

先輩という肩書の方々は、なんて懐が広いのでしょうか。これまで様々な分野と世代の先輩方に、しぶしぶでも受け入れていただいたことを思うと、感謝せずにはいられません。それはまた、同期や後輩を含む友人のみなさんも同じです。

心を開くと、開いた先にあるすべてが愛しくなったりするものです。わたしにとってはそれが犬だったり、おしりだったり、人だったりするのかもしれません。またあるときは音の重ね方であったり、奏者や作曲家であったり、彼らの精神であったりするのかもしれません。
興味のないものに興味がもてるようになることは、そのもの自体に魅力があったことはもちろんですが、やはり双方が心を開いているかどうかが、大きいのではないでしょうか。

女の子の恋愛相談は、誰かを惹きつける手っ取り早い方法です。心の鍵をあらかじめ開けているから誰かに相談できて、開いてくれているからこちらも応援できるのでしょう。
わたしが、そんな相談すらしなかったのは、秘密をつくること自体に甘い感覚を持っていたからでした。また、いつか使うべき魔法の粉を、空に撒き散らすかのような、勿体無さすら感じていました。平たく言えば、自分の心をコンテンツにしたくなかったのです。 コンテンツにしたこともまあ、あったけど。

いままでわたしは、なかなか良い出会いに恵まれました。前述のとおり、大学では先輩や後輩や同期に素敵な人がたくさんいました。たくさんの素晴らしい先生方と出会うこともできました。
それから「この人はすごく好きだけれど、恋として消費して失ってしまうにはあまりにもったいない」と、特別に感じる人もいます。
ふと、そうやって、わたしが心を寄せた人に、安心して接してもらえるように、脈なしですよ!と一目でわかるように、よい友好関係を深められるように、はっきりと公言できる恋人を作りたいと思いました。ほう、自分がそんなことを思うなんてなあ。

恋と愛の定義が人によって違うように、友情と恋の定義も人により様々です。わたしが思うに、恋は友情の上位互換ではなく、また友情は恋の下位互換でもありません。性愛と性欲の違いが難しいように、心や言葉は、体やその他非言語的なものと、互いに影響し合い、互いに騙されやすいのです。
そういうことを考えると、好きという言葉は手軽で、しかし大げさで、ただもうすこし丁寧に扱われてもいいはずです。

ところでわたしは、3の倍数や、12の倍数が、好きです。
12年前、12才の頃のわたしは絵や文章や、音楽で自己を主張したい欲求に溺れていました。好きというものは、取り繕った個性や、所属を主張するための一手段でしかなかったのです。
個性的なわたしを作るために、ロールモデルに近づくために。またある時は、誰かに感性を認められるために、好きな人の好みのために。なりたい自分になるために「好き」を選ぶ年頃が、何年も続きました。

「好き」を意味なく肯定することは、年月をかけて徐々にできるようになったことです。それが、自分で実感できる唯一の成長です。ようやく、誰にでも心を開くことができるようになる…かもしれません。ようやく、欲に溺れる海を出て、地上を歩き始めたのかもしれません。わたしは今日、24歳になりました。