「全ての表現は手紙の様だと思いませんか?」

中学三年生のとき、国語の授業で「メディア社会を生きる」という教材を扱った。これは、人々が受け取る情報と、その情報源=メディアとどう向き合うか、ということを考えるものだった…と思う。

この一連の授業の中で、メディアと情報を分類する場面があった。
テレビはメディア。ラジオはメディア。ニュースは情報…、というように、どちらかに分けるというものだ。

音楽はどちらか。
わたしのクラスでは「音楽はメディア」と答える人が、すこし多かった。「音楽は情報」というのが、正しい答え。しかし、音楽はメディアだと答えた人たちはこの答えに納得ができず、反論した。わたしも、納得できなかった一人だ。

今ならわかる。音楽はラジオと肩を並べる存在ではなく、ラジオから流れるものだ。だから明らかに、音楽は情報だ。でも、伝えたいことを乗せるという面で、音楽はメディアだと思いたかった。

音楽はメディアか

中学生の頃、触れた音楽を思い出してほしい。もし音楽が思い出せなければ、小説でも、アニメでもいい。この多感な時期に、創作物によって心を動かされた人は多いはずだ。
私が思い出すのは当時聴いていた国内のロックバンドだ。彼らの曲にメッセージ性のない曲なんてなかった。

偶然にもわたしのクラスには音楽をやっていた人が多かった。吹奏楽部員のみならず、バンドや、和楽器をやっていた人もいた。そして、人前で演奏することに対して、積極的だったように思う。
 先の授業で「音楽はメディアだ」と主張していたのは、主にこういう顔ぶれだ。わたしたちは信じていた。音楽で受け取るものが多かったから、音楽は伝えるための手段になるということを。

その後、わたしの音楽に対する興味の範囲は徐々に広がった。音楽のために存在する音楽もたくさんあるということを、見渡せるようになった。音楽は情報であるということも、理解している。でも、あのときの熱い主張を裏返している現状が、何故かさみしく思うこともある。

でもやっぱり、メディアだ

先日、「左利きのエレン」というマンガを読んだ。


このマンガが人気な理由は、才能の残酷さを生々しく描いていることかもしれない。組織で表現をする葛藤かもしれない。人それぞれ、心を打たれるポイントは違うと思う。
でも、重要になっているのは、人と人の、また創作そのものでの、対話だ。わたしがはっとしたのは、7巻のこの場面。

左利きのエレン(7) p.190

全ての表現は手紙の様だと思いませんか。
音楽がメディアかどうか、という話を書こうと思ったのは、この一言のせいだ。
雑誌が手紙なのではなく、表現が手紙であると。でも、手紙は情報を運ぶメディアだ。あのときの感覚はまさにこういうものだった。

テレビや雑誌など、一般的なメディアの使命は、多くの人にたくさんの情報を伝えることだろう。でも、表現者の使命が、それと同じとは限らない。一人のために書いたものが偶然、大勢の人に届いたりするのかもしれない。でも、大勢の人に届けたいという気持ちだけ、先走ることとは、少し違う。

分析、フレームワーク、誰かの目線を借りて考える、表現をブラッシュアップするための方法は数多くある。そういう方法は、多くの人を惹きつけるためのものではなく、ひとりのための表現を、いくつも増やしていくというものなのだろう。

会話と手紙

突然だけど、演奏は会話だ。最近はそれを実感する出来事が多かった。会話は、演奏は、時間の共有であり、リズムであり、空気であり、呼吸だ。
わたしは会話がかなり苦手で、苦痛を感じることすらある。だから、わたしにとって演奏は、楽しいことでもありながら、自分の不足を感じる、苦しいことでもある。

このところ手紙のようなメッセージをもらうことが多く、とても心強かった。私は会話が苦手だ。でも手紙は、嫌いじゃない。全ての表現は手紙の様だと思いませんか。わたしは返事を書きたいと思う。