「生み出せなければ死ぬしかない」って何故か知らないけどそう思っている

子供を産んだら死ぬ、虫は子供を産んだら死んで、鮭も産卵したら死ぬ。子孫を残すことは生物として重要なミッションだということはわかるのだけど、たとえ子孫が残せなくても死ぬわけです。命ある限りどんな生き物でもいつか必ず死ぬのですよね。

子孫を残すって本能とかそういうものですけど、別に子孫を残したいと思わない人もいて、そういう人でも寿命まで死ななくていいのが人間のいいところで。逆に、子供を産んだとしても寿命が来るまで生きていいこともまた、人間のいいところで。

そういえば作品を子供だと思う、そういう考え方を聞いたのはいつのことだったっけな。覚えているけれど、自分の作品をわが子に例える人は多い気がします。

今日はこの話をしたいです。
「生み出せなければ死ぬしかない」の話。

曲を書く!と宣言していた先生に、曲書けましたか?と聞いたら「書けなかった、やっぱ無理だった」と一言二言で片づけていて、顔に出さなかったけれど(出てたかもしれない)実はすごく衝撃を受けました。それは師匠に失望したとかいう意味ではありません(全く失望していません)。わたしが心から慕っている先生でも、書かないと言い切ってしまうのかという部分に衝撃を受けたのでした。
突然この話をしても何を言いたいのかやっぱりよくわからないな。いやいや、そりゃーね、もちろん、わたしにだって、書こうと思って書ききれなかったもの、お蔵入りした作品、音楽に限らず、あるんですよ。書こうと思っただけで書かなかったもの、構想を練ることすらままならなかった企画とか。結局誘わなかったごはんの約束とかもね。だから先生が曲を書かなかったことにびっくりする資格ないですよ。わかってます。

たとえば自分の書いた書き譜を誰かが吹いてくれたとか、そういう些細なことに喜びを覚える血が何故か流れている、こういう感覚、わたしはもう少し大切にしたほうがいいのかもしれません。意外と自分じゃわからないことなのですが、自分が楽しいと思うことが誰かも楽しいと思うとは限りません。ドビュッシーはあんなに素晴らしい音楽を書くけれど、別に彼の音楽を好きじゃない人もいますし、ドビュッシーを好きじゃないといっても死ぬわけじゃないし別の音楽に親しめばよくて、ドビュッシーを好きなら突き詰めることもできるでしょ。それはそれで極端な例だけど。編曲をしている時間があっという間に過ぎて行ってしまうこととか、そういうことに共感する人は、いなくはなかったけれど、多くもなかったです。

わたしは書かなければ死んでしまうのだと思っていて、それが作曲とか小説なのか絵なのかなんなのかはわからないし、物心ついたころから駄作量産おばけだったことは確かで、才能ないとか、努力をする勇気がなかったとか、サックスを吹きたいとか興味があるとかその他それらしい理由で消去法を使うかの如く現在の道を選んで現在の自分がいるのだからそれはそれで変な話なんですよね。サックスを吹くことが楽しいということもまた、わたしのなかでは疑いようのない事実なのです、この選択が正しかったかどうかということはなかなか判断しがたい問題ですが、このまま堅実なサックス奏者さんたちと同じ道を歩もうとしたらほぼ確実に、いい未来待ってないですよね。だってみんな、消去法じゃなくて、積極法で選んでいるんでしょ。生み出さなくても死なないし。

駄作を産み出して、ああこれはレベル低いわ~と自己嫌悪に陥る、これは恥ずかしいからあまり見せられない、あの人たちとは比べ物にならないし、これはさすがにちょっと良くないなあ…、そういうものばかり書いて、そういうことばかり思って筆が止まり、でもやはりまだ心のどこかで作らない自分に妙に不安を感じたり、何か作りたいと思ってしまうのは、やっぱりそういう血なのだと思います。というか、これ、みんなそうですよね。そうじゃないんですか。よかったら教えてください。

人間が遺伝子を残すように、文化の遺伝子とでもいうようなミーム(meme)を残す、そういう考えかたがあるようです。
ミームを残す方法はそれこそ、良い演奏をすることだったり、よいアドリブをすることだったり、パフォーマンスをすることだったり、創作をすることだったり、批評だったり、人によって違うのでしょう。自分の遺伝子を後世に残す方法がなにかひとつしかないことはないはずです。子供を残さなくても生きていられる生き方を持った、人間ですから。

「生み出せなければ死ぬしかない」という言葉の意味するところ、わたしが残したいのは、自分が創作をした作品なのだと思いました。たとえ、先人の生み出したものに敵わないとしても。いや、誰にも敵うわけないでしょう、お前は誰を負かしたいと言っているんだって話ですよね、わかります。すみません。わかってます。

10年くらい前、絵をかくのが上手だったクラスメイト、…というか模写が上手だった子たちに引け目を取って、絵をかくのをやめました。彼女たちは模写がすごく上手だったけれど、それは創作物へのリスペクトを示す形としての模写であって、盗んだアイデアで新しいことを生み出すことは(当時その時点では)彼女たちはやらなかった、わたしは模写をしたかったわけではなく、盗んで生み出したかっただけだから、お互いやりたいことが違うし引け目をとることなかった……と気づいたのはついこの間、本当についこの半年くらいのことです。もちろん本当に絵がうまくなりたかったのならば模写も写生もデッサンも、なんでもやるべきでした。でもね、確かに私の創作物は粗雑でぱっとしないものだったけれど、この場合大事なところそこじゃないでしょ。今日個性的な画風で創作をしている人は沢山いらっしゃいます。自分のやりたいことを見誤ると人生は難しいですね。自分を信じることもまた難しいです。おやすみなさい。