すごくしんどい時期にTwitterで言葉を吐き出して、誰かの目に留まって救われたことがあります。Twitterに吐き出すことで、誰かが飛ばしたやさしい言葉に目が留まって、その言葉に救われたりもします。言葉は強いです。
そういう経験があるからこそ、「生きてるだけで偉い!」とか、そういうことをときどきつぶやいています。救われた経験があるから、誰かに届けようと思って、送信ボタンを押します。
それを良いと言ってくれる人がこれまで数人いたから、だから、そういう言葉が必要だという気持ちが、より一層強まりました。(鬱陶しくてたまらない人には迷惑な話ですね)
言わないだけで、見ていないだけで、必要としていた人もいるかもしれません。何回でも、何回でも、くどいと思われても、わたしは言い続けたいです。それはずっと続くのかもしれません。悲しいけれど。
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漫画家のさくらももこさんが亡くなりました。またTwitterのトレンドに名前が上がり、死を惜しむ声が、たくさんありました。
色々な人が彼女の作品や、彼女の人生や、色々なものに思いを馳せて、感謝の言葉をつぶやきに乗せていました。でももう、それを彼女が見ることはないのですよね。だから「生きているうちに」というつぶやきも、いくつか見ました。
特別な思いを持ってさくらももこさんの作品の一部分を心に綴じている人たち、訃報に触れてそれを公開して、感謝の気持ちを表していて、今日が誕生日だったらよかったのに、誕生祭だったらよかったのに、なんて思います。多くの人の心に残る作品を世に送り出して来た偉大なクリエイターの訃報に接するたびに思うことを、今回も実感する。— たられば (@tarareba722) 2018年8月27日
作品への愛情や作者への感謝は、生きているうちに、届くうちに。
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わたしは彼女の作品にこれまでそれほど興味を持てずにいました。今知って、もっと早く知りたかった、と思っています。
すてきな作家だということを知れなかったと思う理由はふたつあります。ひとつは自分が興味を持っていなかったということ。もうひとつは、普段からこうやって発信してくれる人に出会わなかった、ということ。
きっかけさえあれば発信する人がいるのに、きっかけが作者の死って、寂しすぎます。
沢山の人がそれぞれ思い入れのあるさくらももこさんのコマの切り抜きを貼っていて素敵です。こんなに感情的なものを描いていたなんて知らなかった。歳を重ねるにつれて毎週流れていたちびまる子ちゃんのアニメすら見なくなった自分、当たり前は思い込みを生む、思い込みは気付きを減らす、と思うなど。— オーノサエ🎷💮🐧📷 (@sae_ono) 2018年8月28日
自分は思い込みがあった、当たり前のように遠退いてしまった作家さんだった、アニメ化している1作品だけがその人のすべてだと勘違いしていた、この人の作品を知らなかった、こんなページを書いていたなんて知らなかった、もっと早く知りたかった、と思うの、つらい。もっとやわらかく在りたかった。— オーノサエ🎷💮🐧📷 (@sae_ono) 2018年8月28日
つらいときに助けられた作品、思い出す作品、目にするたびに「これに救われました」と教えてくれたら。それに救われる人もまたいるかもしれないです。わたしだって、良いと思ったものをいいと言わなければ。当たり前は人によって違うので、たとえ最新の流行モノじゃなくても、「あの人のこれはおもしろい!」と発信している人がいたら、それを見つけられる可能性はある。作者さんに声が届くうちに、作者さん自身や、その人を見過ごしてきた人に届くなら、公の場に感想を書くことだって意味のある発信、です。— オーノサエ🎷💮🐧📷 (@sae_ono) 2018年8月28日
同じことを同じ人が何度も言うの、同じことを別の人が何度も言うのも、意味があるから繰り返されることで、それは繰り返しというより強調で、言葉にしたいと思いました。
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そういうことを考えると、自分に伝えられる言葉の重さも、また重みが増す気がします。きっかけがなければ外に出すこともなかった言葉を、わざわざ出して伝えてくれるということって、すごいことです。
言葉でもって、些細なことを肯定してもらえることが、増えたような気がします。誰かからの肯定はむずがゆくて、はずかしくて、受け取りづらいです。でも、わざわざ言葉にして届けてもらえる限り、正面から受け取りたいです。そして、しっかり、返していけたら。
わたしに 「いいと言ってくれる人を信じて、発信し続ければいいよ」と、人づてで伝えてくれた方がいます。その言葉も、伝えようという意図を持って生まれて、わたしに届けられたものです。何を信じたって信じる責任は自分にあるのだから、信じたいほうを選びたいです。