読書メモ / 森本恭正「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」を読みました

森本恭正さんの「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」を読みました。


日本人は農耕民族だから拍の取り方が重いとかのっぺりしてるとか、いいますよね。
私も、ビッグバンドにまぜてもらっているときなんかは、そういう話を耳にしました。ジャズの先輩から、黒人の人はそもそも歩き方にすらスイングが備わっている、そもそも違うんだと言われて、なんとかしたいと思い続けていました。
そして、そんなときは、クラシック音楽とポピュラー音楽の拍の取り方の違いとして、表拍・裏拍の重さの違いを述べられることが多かったような気がします。

この本、話の発端は森本さんが「日本人の演奏する西洋音楽」へ疑問を持つところから。
ロックミュージシャンの裏拍が重いことを発見して、ロックだけではなく、そもそも西洋音楽、ヨーロッパのことばが裏拍に重きをおいているということに気が付きます。
さらに、そもそも楽譜を見て再現していると思っていた自分たちの演奏や解釈は正しかったのか?、作曲家はどういう意図で新しい表現を作り出してきたのか?というところを突き詰めていきます。

わたしが前半のおもしろいと思ったところ。
調性音楽が何を表しているのか?調性から脱出をした十二音音楽はどういう意識があるのか?という部分があるのですが、ここです。



ドミナントとは英語で書けばDOMINANTEDつまり「優越している」ということに他ならない。では何に対して優越しているのか?それは主和音以外の他の全ての和音に対してだ。では、何を以て優越しているというのか?それは、このDOMINANT和音だけが特権上に主和音に進行できることを以てして、である。この、ドミナント=優越、という言葉が印象的に示しているように、調性音楽において、一つ一つの音は平等ではないのである。ではその頂点に立つ、主和音の中の一番大切な音、ドミソのドの音、即ち主音とはなんだろう?神だ。キリスト教的世界観において。(no.659~)


私は実際、ドミナントの意味ってわかってなかった。
しかもドミナント→トニックという何気ない流れから、キリスト教的世界観が導かれるのが、納得できるけれど、衝撃である。歩き方だとか民族性とかいろいろあるけれど、本当に色々な部分でもって、西洋音楽と西洋の人は結び付けられているのだ。どれだけ音楽が持つ感じ方の特徴を、うまくつかっているんだよ!という。すごすぎる。

この、神からの支配、神以外にも何か絶対的な支配者のいる世界、そこから脱してすべての音を平等にするのが十二音音楽なのではないか…?という。
だから(?)、音楽史も、社会情勢も、なめたらいけないよ。

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歴史の流れで、どういう意図があって生まれたものなのか、今になっては過去のもの!となっているクラシックだけど、それぞれの時代でどんな流れがあったのか。作曲家はどんな流れを受けて、音楽はどんな変化の中で演奏されてきたのか。もちろん今現在だって、変化をしている。
演奏者は楽譜だけではなく、その頃や、その前の動きまで遡って、文化や言語を考えて演奏することが必要なんですな。

そう、そこまでした上で、自分の個性を添えていくのだ…遠い道のり…

他にもいろいろな考察が書いてあって、ほんとうにおもしろかったです。
kindle unlimitedにもあるので(7月16日現在)、是非。