読書メモ / 湯浅譲二×川田順造「人間にとっての音↔ことば↔文化」を読みました

湯浅譲二×川田順造「人間にとっての音↔ことば↔文化」という本を図書館で借りて読みました。
現代音楽作曲家である湯浅譲二さん、人類学者の川田順造さんの往復書簡と対談が掲載されています。
本の内容はお二方がそれぞれの考えに共感しながら、「音楽から見た文化の起源」と「文化から見た音楽」とでもいうような、それぞれの視点をもって人間の文化について語る、というようなものでした。お互いに思い思いに言葉を綴るうちにとりとめもなく話がどんどん進んでいるようかのようで、読み進めるのもも大変で、
読了後も書かれていることすべてを理解できているかというと、できていないです。

以下、本文より私が気になった部分を引用させていただき、思ったことや感じたことなどを書きます。

言葉は音そのものにも意味を表すの役割があるということ

様々な意味と結びついて用いられてきたこれらの言語音が、その言語を母語とする人々にとって意識されないにせよ不可避に帯びてしまう意味から完全に独立したものではありえないでしょうし、従って異なる言語文化の人は、同じ音感語からの別の感じを受けるでしょう。(p33・川田)


やまとことばは言葉の形が単純で、意味が多義的です。例えば「たつ」という音のつらなりで「立ち上がる」、「出発する」、「切る」、それから「時が経つ」。「たつ」という言葉の中にそれらの原初的なものが全部含まれているようなものとしてあったのではないか。それと、表意音に、音の発音とそれが意味しているような感覚が重なっている。「すべる」という動詞と、「すべすべしている」、これも音で感覚を表すものです。(p.134 川田)

川田さんはオノマトペを、聴覚刺激を表現したもの、視覚刺激を表現したものの二つに分けて、さらにその下にも下位分類を作り説明されていますが、音感語は聴覚刺激から出来た言葉を指しているものです。音感語の下位分類としてある表音語は音を直接言葉にしているにもかかわらず、同じ音を表していても言語によって大きな違いがあるとしています。(p32)

たしかに犬の鳴き声は日本語ではワンワンで、英語ではbow-wou、フランス語ではouah-ouahだったり。母音を取り出すと確かに似てるような気もするのですが、かつてその違いを初めて知ったときは密かに驚きました。どこの国でもワンワンだと思っていたのに。
日本語の中で同じ音を持つ言葉も、意味が近いものが多いような気がします。例えば「始め」と「初め」や、「早い」と「速い」など、使う場面は明らかに区別されているものの、音から受ける印象は近いものがあります。
「熱い」と「暑い」はどちらの意味も温度の高さを表していて、これは漢字に当てはめるために意味を分けて使っているのではないかと思わされます。

文章や詩の韻の踏み方やリズムは翻訳すると崩れる、ということと同じように、言葉の持つ音そのものが伝えている感じ方は、実際に使っている私たちが思っているより大きそうです。
語学を勉強するときに会話や聞き取りから入ると入りやすい、というのは読むより聞いたほうが覚えやすいという理由もありますが、おそらくそうすることで早く母国語の持っている音と意味とを切り離して考えることができる、ということなのでしょう。
(自分の実感として、フランス語を使っている時はその都度日本語に訳して考えたりしないし、分からないことを訳して考えているときはやっぱりよくわからないです。)

音楽の全体の中で、自分はどこにいるのかを知る

五十年前ぐらい前に誰かがやって、いま誰もやらないことを自分がやってすごく新しいことをやっていると錯覚する子もいるんですね。こんなのとっくにやっているよという、それは結局過去を知らないからなわけです。ですからいま自分は音楽全体の座標軸のどこにいるかということを自覚する必要がある。(p163 湯浅)

対談中に、前衛とは何かという話題になり、今いる場所から好奇心を持って新しい場所を探すことが前衛だろう、という話になっているところ。湯浅さんが大学で教えている学生に作曲家にとって大切な五つのことを話す、その一つが「好奇心を持つこと」、あとの四つは、「楽器だけでなく全ての音を聴きこむこと」「科学的な態度を忘れないこと」「自分の座標軸が分かるように確かめておくこと」「物事を別な角度から見る」とのこと。(p160~163)
その中で上の引用の文章は二つ目の、自分の座標軸について。

自分が知っていることしか知らないがために新しいと思ってしまうこと、これ自体はこの本の中であまり重要ではない部分なのかもしれないのですが、私自身に足りない部分なので目に留まりました。自分や触れている音楽が歴史上のどこにあるのか知ることの重要さは、作曲だけではなく、聴く人、演奏する人、にも同じことが言えると思うのです。

ラヴェルを聴いて、こんな曲聴いたことない!すごい!と感動している学生を大学で時折見かけたし、数年前の私もその一人です。
ラヴェルはたしかにすごいけど、それを受けてもっと新しいことをしている人もいる。逆にラヴェルは何を受けて曲を作っていたのか、それ以前はどんな人がいてどんな曲が作られていたのか、とかは知っていた方がずっといい。
自分の好みに合っているか、新鮮に感じるかより、その音楽を客観的に見る観点として、歴史が頼りになります。

それから、現代音楽のなかには明らかに民族音楽に影響を受けているものもあるので、斬新なことをやっているようで、これはこの国のこれを西洋音楽の楽器でもって演奏することで、新しい表現を模索する作品もありますよね。それ自体が新しいのか古いのかということはともかく、その意外な組み合わせがおもしろいと評価する人もいるということ。知っているから組み合わせの幅が広がり新しいものが作れる、ということなのかと思います。

わかったような書き方をしているくせに、私自身が音楽史にとても疎いのです。勉強します。

時間のとらえかた

数えない時間とはなにかというと、息の持続の時間なんです。息は気ですから、気はかなり精神的なものと近いわけで、そういう音楽は非常に精神的なものである。書道なんかもそうですけど、息を止めたり、いろいろしながら書くわけです。あれも一種の日本的時間の気なんです。剣道の間合いなんかもそうだと思います。そういう時間と、たとえばなんとか踊りというのとは、全然違うんです。(p188 湯浅)


たとえば何連音符というのがありますが、二拍の中を五つに分けるとか、それを更に分割したりすると、あるいは三拍を四つに分けてさらに三つに分けるとかになるともう数えようがないんですね。そうすると合理的な楽譜の書き方から数えられない時間にだんだん迫ってきている部分がある。(p190 湯浅)

この本の中では、伝統的な音楽が持っている時間やリズムのとらえ方が、それまでの楽譜の書き方で表せないようなものであったりすることは何度も取り上げられていて、演奏だけでなく踊り、言葉においても、正確に記録することは難しい。西洋音楽的な、拍の区切りを持たずに合わせていく日本の音楽で、どのように時間をとらえているのかというはなし。その疑問の答えが、数えない。

この部分が気になった理由は、私の友人が、拍子のない現代音楽を練習するときにどうしても五連符、七連符を細かい拍で分けないと考えられず、複雑に捉えて頭が痛くなるからなんとかしたいと嘆いていたからです。
私はというと、彼とは逆に拍に収めて数えるのが苦手で(まぎれもなくこれは正確なリズム感が必要な場面においては致命的な欠点だと思います)、かつては五連符があるときはいちいち音のひとつひとつにあいうえおを当てはめて練習していました。いまは単にここに五つ音を並べる、という感覚でやっていて、それが正しいのかどうかはわからないけど、一人で演奏する曲であればなんとか演奏できるようになってきたところです。(でも、アンサンブルでとにかく正確に縦を合わせなければいけない曲で、これほど細かい複雑なリズムと出会った時は、きっとこのとり方では対応できなくなるはず。)

私の友人のように、拍で細かく分けて考えてしまう人にも、こういう感覚をうまく伝えられたらいいのだけど、と思い続けてきたのですが、それが「数えようがない」と片付けられていておもしろいです。そもそも拍を数えるものとは全く別のものなのだと。
楽譜を読んでいて全く理解不能になり行き詰るときは、前提としていることが全く違うのかもしれない。
便宜上、五線譜でかかれているだけで、本当のところそれを書き表すこと自体が難しいのかもしれない。
それから、拍感が少ないところで自由に演奏する、カデンツみたいなものと、拍感が全くないところで演奏する即興演奏とは、自由さからして似ているようで根本的なところは違うのかもしれない。
この本の中での拍や時間や記録等々の一連の流れを読んで、そんなことを考えていました。


***
今まで本を読むときは、あまり内容をまとめたり考えたりせずに流していたのですが、今日は自分の文章を書く練習のためにもちょっと考えて書いてみた次第です。
この記事を読んだ人にとって有用かどうかはともかく(長いしちょっと読みにくいなあ)、これを書くことは楽しかったです。
しばらくこういう感じで、受け取ったことを自分の言葉にしながら本を読んでいきたいです。
この本もまたしばらくしてから読み直したいと思います。


湯浅譲二、川田順造 「人間にとっての音↔ことば↔文化」 洪水企画(2012年02月)