読書メモ / 北野武「余生」を読みました

北野武さんの「余生」を読みました。

大学時代から大変お世話になっている先生に「本を読むことは他人の人生を追体験することだ、だから本を読みなさい」と言われていたので、表現者としてなにか参考になることがあるかもしれないと思って図書館で借りてきたものです。
でもこの本、全く追体験なんてできるようなものじゃなかったです。北野さんの人生が人並み外れたものなので、そうだよね~と共感できるところが殆どないのです。インタビューによるもので、全編が本人の語り口調そのままで書かれているので、さらさら読めるのですが、最初から最後までなかなか衝撃でした。

前回の本の記事がとても長くなってしまったので、今日はなるべく引用も少なめで簡潔になるように心がけながら、心に残ったことを書いていきます。

客観視




例えば、小学校のときに五~六人並ばされてビンタ食らってくんだけど、すごくおっかない先生で、隣の奴、三人目ぐらいは鼻血出てくるの。そんで、五人目は俺なんだけど「俺んとこ来る、俺んとこ来る」と思った瞬間にポンと抜けちゃって、「北野君殴られる」っていうような感覚になってるわけ。で、バーンとかって確かに痛いんだけどさ、「ああ、北野君、殴られて痛そうだね」って自分で言っちゃってんだよね。そういう感覚はすごいあった。(p.14~15)


わたしは最近、観察自我を持つことを最近気にかけているところです。観察自我は、自分の身に起きる出来事や感情に対して良し悪しの判断を下さずに客観的に見ること、だと思っているのですが、それがとても難しい。気が付くと、たのしかったなぁとか、これは嫌だったなぁとか、これ好きだなぁ、とかどんどん主観的になっています。わたしはもう成人して社会的には大人なのに、今でも感情が自分の舵を握っている感じがどうもあるのです。場面によってはそれはそれで必要なのかもしれないけれど。
だから、小学生の段階でこうも客観的になれるのかということが、ただただすごい。
この本の中でもこの後で、映画監督の北野武とビートたけしはそれぞれ人形だと思って使い分けているだけだという表現が出てくるのですが、これほど自分と考えていることを切り離して考えられるから出来うることなのだろう、と思いました。
テレビに出ている姿を見ても、どうなっているんだこの人は…と思っていたけれど、一貫して冷静に物事を見る視点を持っている、ということなんですね。

人の好いおじさん





まあ、これからは齢と共に徐々にレギュラー番組がなくなって、たまに単発で何かのゲストで出てくるっていうことなんだろうけど。一番問題なのは、テレビでたまに年老いて出てきたときに、昔のイメージを引きずった、人の好いおじさんで出てくるのはイヤだからね。大暴れしてやるっていう。しかも、それでセンスがないとね。今までは年寄りなりのワガママさで「しょうがないなあ」って言われる人が多いじゃない?そういうのはイヤだね。センス的にはいい勝負してるっていう感じを見せたいよね。(p.188)


これは、私のフィルターを通してすごく単純に考えると、年を取ったから大事にされるより、実力で勝負が出来る存在でいたいという意味に受け取れるのですが。
年下の実力のある人たちと一緒になる機会があっても、年が上だから大事にされるのは嫌だと私は思っているので、だったら自分の技術や出来ることの幅を高めましょうよという。幸か不幸か自分はまだ、過去の栄光みたいなものがないので、そういうものにつよく縛られることなくやっていけそうです。
(とはいえ、留学していると年齢にかかわらず学生同士なら公平に接するのが普通なので、日本ほど気を使ったり使われないのは居心地が良いです。日本だとひとつ学年が違うだけでも全然違って気を使うし、一つか二つくらいしか違わないし私より実力もある相手から、年齢を理由に気を使われるのはなんだか不思議なものです。年齢がものを言うのはアジア圏特有のものなのかなあ。)



受け取る側の想像力に委ねる





遠くの方で拳銃持った人がいたっつって、大して寄らなければ、観てるほうは自分の一番いいものを勝手に想像して観てくれるっていうとこあるから、だからあんまり寄らないんだよ。(p.205)


これは映画についてのことで、この本のなかでは、あまり寄らないで撮ることについてこれ以外にも何度か書かれています。
この引用の文章の直前には、表現が具体的になるほどそれが嫌いな人が遠ざかるということが書かれています。
映画に限らず、表現をするときはこだわりを持って細部まで凝ると思うのですが、凝ることと細部を映すことは微妙に違い、あえて細部を映そうとはせず観る人の想像に委ねるという見せ方をする。
こう受け取ってほしいと思うことはあるけど、そう受け取れるかどうか、その人がそれを好きかどうかはわからないので、観た人の受け取り方を見越している考えがすごいです。

演奏でも、自分にとって難しい曲にてこずっているときは、こういう感覚はちょっと忘れがちではあります。


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他にも気に留まるところはたくさんあったのですが、もうどれもあくまで客観的であることの延長線上にある。それぞれの話に色んな意味はあるので、なるほどなあと思ったり。ひたすら、この人すごいな、さすがだなあ、と思わされました。私も最近は、何かの世界で名を残した人の本を何冊か読んでいましたが、そういう本は誰かの訳に立つことを考えて書かれているのに対して、これは思ったことを語っているだけ、というのが新鮮でした。すごいなあ。