理解してほしいと思わなければすこし楽になるのかもしれない


大学の後輩さんたちがSNS上で、音大じゃない人に自分たちが何をしているのか勘違いされることが多い、それが嫌だ、という話をしていました。
私も、そういう葛藤に悩まされていた時期があり、理解されないことはしんどかった。
今はちょっと違って、相手の勘違いに腹を立てることは少なくなりました。
かといってそこで後輩たちに自論を展開してドン引きさせるのもどうかと思ったので、こうして文章として書くきっかけを後輩さんたちが与えてくれたことに感謝しつつ、ここに自分の考えを書いていきます。今思っていることです。

理解されないことってつらいけど、理解できない側はどういうものなのでしょう。
わたしは、自分が世界中のどんな出来事も即座に理解できるという自信はないです。

理解しようとすることって、少なくとも「共感」ではない限り、その人の考え方を変えたり、考え方の引き出しを増やしたり、新しい知識を身に付ける行為です。
わたしは、そもそも興味を持たないとそういうことができないです。
誤解しないでほしい、理解してほしい、と思うならまず興味を持ってもらわなければいけない。理解してほしいと思うなら、興味を持ってもらうこと、正しい知識を与えること、両方の労力をある程度はこちらで持つものではないのでしょうか。

だから、今は、さほどその人にとって大きな違いがわからないことがらで、勘違いされていても大きな問題がないことは、その場ではうなずくことにしています。何度か聞かれたり、質問されたりするときは、興味があるだろうと思うので、そういうときは少しずつ説明します。細かいところまで理解してほしいと思わなければ、誤解にぶつかってもさほどいらつくこともなく、ちょっと楽です。
それから、こうやって理解されない場面に出くわしたときは、自分も理解していないことが多いことに気が付くきっかけだと思うことにしています。理解されなくてもいいから理解しなくてもいいのではなく、自分も理解を広く、深く持ちたいものです。おわり