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Showing posts with the label 考えていること

最近の話

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こんにちは、こんばんは。 色々なことを変えたり、終わらせたりしながら、今この場所でブログを書いています。帰国して1年経ちましたが、1年前とも、数か月前とも、常に違う景色を見ている気がします。 ブログを読み返すとやはり、以前の自分が何を考えていたか思い出すことができておもしろいです。今回も、今の時点で思っていること、変わったと思っていること、忘備録として書いておきたいと思います。 オンライン上での立ち振る舞いについて 発信、頑張るのを辞めました。 頑張って発信することをほとんど辞めました。 また頑張りたいです。ただし、いつか頑張る、と思ってるので、一生頑張らないかもしれません。 オンラインサロンは、唐突に閲覧専門になってしまいました。 色々な思うことがあり、入っているけど殆ど見ない、幽霊みたいな感じになりました。任されていた作業も、手を止めてしまいました。 無責任ながら、こうすることで、自分自身の心のざわめきはかなり減ったように感じます。 潔くオンラインサロン自体を退会すればいいのですが、できていません。というのも、サロンにいれば前向きな影響をもらえることもまた知っているからです。またいつか、前向きさのおこぼれをもらえるように、今もまだ在籍しています。中途半端です。 そうそう、Twitterも。10月初旬からおよそ1か月 Twitterのアカウントを凍結させて、限られた友人とやりとりをするだけにしていました。その間、驚くほど心が穏やかになりました。次から次に流れてくる情報を追うのは、思っているよりも疲れるみたいです。 Twitterは連絡手段としてもよく使うので、アカウントを完全に消すことはできないのですが、今も以前と比べれば見る時間は確実に減っています。この調子でいきたいです。 物書きのお仕事について やれることはなんでもやろうと、やれる限りの案件すべてに提案をして、通ったすべてのお仕事を引き受けておりました。 そうしていただいたお仕事にも少しずつキリをつけ、1件のお仕事を除き、年度の変わり目を境に全てのお仕事の継続をお断りしました。 最後まで残った1件のお仕事は、年度が変わった後も、長らく伸ばし伸ばしになっていました。数か月越しでなんとか形にしたところで、案件自体がキャンセルになりました。 これほど時間がかかってしまったことは初めてで、完遂できなかったこと、自己...

少しは人の役に立ちたい

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日記です。 水曜日に、深津貴之さんのnoteを読んだ。 あなたが真にすべきは、スキルセットに応じた形で「インターネット全体に奉仕すること」だ。 インターネットに、自分の業界に。 そこに貢献するというのは、すごく腑に落ちた。 今までも、フォロワーを増やすノウハウはいろいろ見てきた。でもどれも「やるぞ!ーと意気込んで折れるだけだった。やっているうちに「別にここまでしてフォロワーいる?」と思ってしまった。1日30ツイートとかも、無理だった。 ネットで音楽について探し物をする機会は多い。欲しい情報や、面白い記事にたどり着けたことは何度もある。それは書いた人がいるから、たどり着けたわけで。Google検索だけではたどり着けなかった情報だって、たくさんある。 フランスに来てみないとわからないことは、ないかもしれないけど。 でも、本にしか載っていない情報はある。そういう本は図書館にすらないこともある。 自分が必要だった情報を、自分の言葉に噛み砕いて、インターネットにのせていく。同じように必要としている、誰かのために。 物知りにはなれそうにないと思ってきたけど、やっていくうちに物知りになれるかもしれない。そういう物知りになれたらかっこいいな。かっこいいな……! 最近、ブログが個人的なことを書くメモ帳みたいになっているけど、これでよいです。 noteは書けば誰かのところに飛んでいってくれるから、業界に貢献したい話題はnoteに書くようにします。そういう感じで行きます。

最近の悩み

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すみません、何も生み出さないというか、自分の頭を整理するためだけの記事です。いつからメモ帳になったんだこのブログは。   母と電話した。 フランスに来て何も成長もしていないのにこのまま日本に帰るなんて無理、成長もしていないのにフランス帰りでーす!みたいに言って活動するなんてもっと無理… と言ったら「フランス行こうと決めてから色んな努力をした、そこがすごいんだよ。だから誇っていい」と返ってきた。うむ、 — オーノサエ (@sae_ono) 2019年3月13日 音楽、もう辞めても続けても苦しみしか見えない。ここまで続けてきたことを褒めよう、みたいな気にもならない。好きでここまで続けてきたんでしょう、っていう一言がつらい。きつい。 — ミヨー(くま) (@radiomezzoforte) 2019年3月16日 いやいやいやいや何も結果が残らなくても頑張ったことが大切だとか、いうけどさ、結局見られるの結果ですよ。大学生のときに受賞歴がなにひとつなくて(いまもないけど)とある面接のときに「なにもないじゃん」的なこと言われたの思い出します。結果がなければ音だって聴いてもらえないし価値もないよ。 — オーノサエ (@sae_ono) 2019年3月16日 頑張った、頑張った、頑張った、頑張った、頑張った、どれだけ頑張ってもそれが頑張ったアピールにしかないうちいは何の価値もないんだよ。みんな頑張ってるんだよ。失敗はただのデータだよ。何かが間違ってるんだよ。だからやり方や考え方やいろんなものを変えながら挑戦し続けるしかないんだよ、な、 — オーノサエ (@sae_ono) 2019年3月16日 最近、どうして留学しているのか、なにがなんなのかもうよくわからなくて、迷走どころじゃないくらい頭の中のどうでもいいところを何度も何度もぐるぐるなぞっています。生産性もくそもない。 好きで続けてきたんでしょう、と言われることへの、答えが分かりません。 これしかなくて続けて来たから、本当に好きだったのか疑問しかない。外的要因、上手な共演者と一緒に演奏する機会があるから、とか、いい反応があったから(曖昧からいい解釈をしているだけだな)、とか、そういうことが楽しかったのかもしれない。 自分がやっていて楽しいことなんてな...

2019年1月15日

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信じたり、期待したり、そういうものを純粋に、わたしに寄せてくれる人がいてうれしい。 (わたしが仮にこの道で成功したとしても、はたまた見るに堪えない無様な死を迎えたとしても。特別扱いしたり、物知り顔で語ったりせずに、現状と変わらず同じように、わたしという存在をひとりの人間としてやわらかくそっと扱ってくれる人が、ひとりでもいますように。とか、そんなことを願いつつ。) — オーノサエ (@sae_ono) 2019年1月15日 何者かになりたい、という気持ちがある。でも、もう既に「わたしはわたし」 なのだ、これがわたしの姿なのだ、とも思う。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に「何か」になりたいという気持ちがある、成し遂げたいこともある、不安もある、不安を消すために何度も手のひらのボタンを押す、死にたいとか死にたくないとか、死なないとか、ツイートするほどでもないつぶやきが口から洩れて消えていく、いつかどうせ死ぬのにな、どうせ死ぬ、どうせ死ぬ、 いちばん無に近い場所にいた自分を振り返る。わたしは、わたしは、たしかに、足踏みをしていたかもしれないけれど、でも確実に、ほんの少しだけ、つよくなった。もうひとりで泣いて終わりじゃない、理不尽なことに怒ったりすることもできる。わたしはつよい。わたしはつよい。 こうやって文字にしようと思うとどうしても狂気じみていて、くだらなくて、しょうもなくて、やすっぽくて、こういう自分の思考、すごく嫌です。嫌だけど書き出したらリセットできるような気がしている。気がしているだけかもしれない。なんかはっきりしないことしか言ってないな、 年明けに訪れた鳴門の空がきれいだったので、ばしゃばしゃ写真を撮っていました。よかった。知らない街はいつもきれいです。街灯のない道、単線のJR、まだ電子マネーが対応していないバス、人通りのない住宅街、広すぎるコンビニ、常連さんだらけのうどん屋、やさしい定食屋。うちの音楽院のオケよりも完成度の高いアマオケと、そこに集まるお客さんの話す声の、なまり。なまり。ほんの少しのなまり。 日本もまだ知らない場所ばかりだ、知るっていうのは名前を知っているとは違うんだぜ。っていうのは、「曲名を聞いて歌えない曲は知っているとはいえない」っていう話と同じなんだけど、だから、知るというのは、表面をかすめるだけではたど...

1月3日、イベントでした。ありがとうございます、ありがとうございます、

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帰国に合わせて イベントを計画していました 。 それが昨日終わりました。ありがとうございました。  本当はひとりひとりの名前を挙げて、お礼を書きたかったのですが…。 そうじゃなくて、思ったことを書き残しておこうと思いました。人並みなことしか言えないのですが、それも全部あとで見返したいので。 (お名前を挙げるかどうかというところ、1日迷っていました。滞在した場所や考え方、感想などの諸々の情報を勝手にばらされたくない…ということも、ちょっと考えられるので、この記事では個人名は挙げずに書いていきます。ご了承ください) *** わたしは本当に、ひとりではなにもできないなあというのを思いました。音楽をやるなら、もう、絶対に。 聴いてくれる人がいなければ音楽は成立しないということを、改めて思いました。 わたしが去年、誰も聴いていないかもしれないSHOWROOMでやっていた即興は、それは、それはむなしくて当然です。配信でやっていたときは音としては聞こえることのなかった拍手、あたたかかったです。自分に向けられている拍手、です。 今まで出てきたクラシックの演奏会で、自分に向けられていたそれとは、また違う感じ方をしました。「してあたりまえ」「されてあたりまえ」と思い込んでいた拍手が、あたりまえじゃなかった場所にいたのでした、わたしは。そんなことを、1月3日まで気付かなかったのでした。 Amazonで買ったACアダプターをそのまま家に忘れるというハプニングもありました。それは、お手伝いをお願いした友人に助けてもらったり。そばに誰かがいる安心感ったら。 遠方からpolcaだけ支援して頂いた方や、遠方からはるばる実際に来てくださった方や、近くから車を飛ばしてきてくださった方や。誰かの力でこの時間を動かしている、この時間は動かされている、という実感が、常に強かったです。常に。   わたしのために、何かしらの行動や、お金を動かしてくださるということ。すごいです。本当に感謝してもしきれません。 行動をしてくれた方に対して、どうやってリターンを返せるのか。 ここで終わらずに、続けて行くことなんじゃないかと思っています。本当のところの正しい答えはわからないけれど。 ここで幻滅されて終わり、かもしれないけれど、そうじゃないかもしれない...

忘れるようにできているから、安心して忘れていい(かもね)

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演奏会からただいま。いい演奏聴いているくせに、だめだめな自分が悲しくなって休憩中にトイレで泣いていました。終わってみたら、いい演奏を聴いても覚えていられないのに、なぜよくないことは覚えているのか…?と思って、けろっとしています。親に送った弱音は送信エラーになっていた模様。よかった — オーノサエ🌧️1/3名古屋 (@sae_ono) 2018年12月17日 演奏会に行って、ふと思いました。 音楽を覚えることってすごく難しいです。 その場で聴いた音は、確実に消えて行きますから。録音できても、録画できてもそれは生の音とはまた別のものです。だいたい長いので、覚えていてもほんの一部分。しかもそれを再現できるか?といったら微妙です。 言葉や感情を覚えておくことは、比較的簡単です。覚えようとして覚えているわけじゃないけれど。 嫌なこと言われたら、忘れられないですし。言葉があれば、何かしらのきっかけがあれば、すぐに怒りを呼び戻すことができますし。 未だに前住んでた家の大家に洗濯の回数多いって怒られたこと、洗濯機使う度に思い出したりするし。 ひどいもんです。 いい気分もまた。旅行したときの写真見たら楽しい気持ちが思い出せたりとか、そういうのもありますよね。 でも、料理は?食事が楽しかったことや、美味しかったことや、盛り付けは思い出せても、味をはっきり思い出して、再現したりすることはできないです。音楽と近いかもしれません。 演奏会から家へ帰る電車の中で、手帳に貼ってある演奏会のチケットを一枚一枚見ていました。思い出せないものが、たくさんありました。悔しい。 最近、自分ダメダメすぎて嫌です。すごく嫌です。嫌なことばかり頭で反芻しています。美味しいものも、いい音楽も、その時間を味わいきれば忘れてしまうのに。なぜ嫌なことばかり覚えているのか。悔しい。 いいことも忘れてしまうなら、嫌なことも忘れていいはずです。嫌なことを思い出して自分を責めると疲れるので、こいつをせき止めたいです。何かしらの方法で。おやすみなさい。

役に立たないことが好き

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最近読んでないなと思ってある方のブログを開いたら、愛する人の死について書かれた大量の文章を目の当たりにするなど。淡々と書かれることが多かった文章が、これまで読んだことないほど強く悲しみと苦しみに揺られていた。ふとスマホから目を離すと電車の音が聞こえて、今は朝だったことを思い出した — オーノサエ🌤️1/3名古屋 (@sae_ono) 2018年12月13日 そうわたしも誰かのブログを、時々訪れて読んだりするような人でした。Twitterをフォローしているわけでもなし、RSSリーダーに登録しているわけでもなく。熱狂的なファンではないけれど、そっと見ている人がいます。 わたしが誰かのブログを読む基準、なんなのでしょう。お役立ち情報って、必要なときにしか読まないので、お役立ち情報の乗っているだけのブログは何度も訪れて読むことは少ないのですよね。 その人が考えていることや、人と話したことだったり、あとは、意見だったりとか。そういうものを読むのが、わたしは好きでした。ことばの端々から、人柄がうっすら透けて見えるような。わたしは、そういう魅力的な文章は書けないにしても、そういう方向を向いて歩いていきたいです。 くだらない文章に価値があるのは、その人が素敵だから…。なんて思うしそういう意見はもっともだけれど、誰から見ても素敵な人でなければ文章を書いてはいけないわけではないです。また日記みたいなものを書いていこうかな。 こういうのを何度も思っては、途中で途絶えて、というのを繰り返している気がします。 今月頭に行った、サンジェルマンアンレの夕焼けの写真、なにか有益なことを書くときにアイキャッチ画像にしようと思っていた写真でした。いいや、きれいだし、今使ってしまおう。

運営メンバーをパンクさせたいのか

しんどいことを放置することもまた搾取では しんどさやめんどくささを「伝統だから」「みんなやってきたから」って放置するんじゃなくて、 みんなが楽になる、負担を軽くできる方法を探したいなあ😢 運営の全てを中心にいる数人に任せきりにしていると、組織が崩壊するか運営メンバーがパンクするかどちらかじゃないですか…。なんとかしたい、 — オーノサエ (@sae_ono) 2018年11月11日 金銭的コストを下げるために手を動かす、ってなってませんか? 手を動かしたことそのものに対して、お金を払えないものですかね😢 「何事も経験」かもしれないけど、自分の時間を割いて、名前も出ないのに運営やってる人がいて。それは見過ごしているみんなからの搾取ですよ。経験は報酬ではない…。 — オーノサエ (@sae_ono) 2018年11月11日 これは最近の自分のオンラインサロン活動についてのことではなく、 (それは好きでお金払って好きで作業して楽しんでいるのでそっとしておいてください) ちょっと近い他人のオフライン活動のことです。 なので、口出しする権利ないです。 口出しする権利ないので、ひとりでぶつくさ言っています。 渦中にいない人からしてみると「そんなこともうやめたら…!?」と思うようなこと、結構ありませんか。 でも渦中にいる人からしてみたら、どうにもこうにも動けなくて、ただ来るタスクを処理して、死にそうになっていること、結構あるんですよね。 行き過ぎた敬語は負担 大野、綺麗な敬語のメールの書き方を頑張って身につけたのに、連絡はLINEとかチャットサービスが主流になってしまったから、 いまは早くお返事を書くことを頑張っているよ😢頑張れないこともあるけど… もうとっくの昔にメールの敬語の時代じゃないですよね?メール使ってるならまだしもLINEですし… — オーノサエ (@sae_ono) 2018年11月11日 固すぎる敬語で消耗するのももうやめにしませんか…。目上の人に対しては特に結構気を使いますよね。でも大事なのって、文面じゃなくて内容とか早さとかだと思います…。 丁寧な文章を考えていたらそれだけですごい労力じゃないですか。 ただでさえ大変なのに、「堅苦しい文章を書く」なんてことに労力つ...

mintポイント「ふふふ」はじめました

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mintというアプリでオーノサエのポイント「ふふふ」をはじめます。登録して頂いた方で、該当する方にはわたしのポイントを付与いたしますので、IDをおしらせください。 mintとは mintは、オリジナルのポイントを 作って配れる・もらえる無料アプリです。 mint | 独自のポイントを作って、ファンに配れる無料アプリ オーノサエはどんなポイントをつくるのか  ふふふです 「ふふふ」を使ってできるの特典 30ptで動画をリクエスト (現時点ではそれ以外まだないのですが、ゆくゆくはステッカーのプレゼントや、なにか有料のものの割引などを用意したいと思っております…!) どうやってポイントを貯めるのか 演奏の感想を伝えていただくと1pt Twitterでハッシュタグ[#オーノサエ]または[#むかうところてきなし]で投稿していただくと、1pt Twitterでオーノサエの動画をコメント付きリツイートでシェアしてくださると1pt ほか、気まぐれでQRコードを発行します [SHOWROOMありがとうございます分ポイント] 2018年11月1日以前、SHOWROOMでの配信に来てくださった方、累計ランキングにランクインしていたみなさまへ、下記のポイントを配布いたします。 オーノサエのルームへの累計来訪回数、1回あたり1pt オーノサエへの累計支援ポイント10ptあたり1pt(1ケタは切り捨て) 計算したポイント数は こちら に。 2018年11月1日以降はこの通りではありません。 背中を押してほしい この程度の分際でこんなことを言うのが恥ずかしくてたぶんほとんど誰にも言っていなかったのですが、わたしの夢のひとつに「コンチェルトリサイタルをやる」というのがあります。 はい!!!笑ってください…!笑って…!笑ってください…!!生まれてこのかたコンチェルトとかやったことないし…!笑ってください、もう笑ってください…。 わたしが初めて聴きに行ったサックスの演奏会が、某名古屋の先生によるコンチェルトリサイタルだったのです。多分その時からそう思ってしまう運命だったのだと思っています。 100000pt配りきったら、自分のコンチェルトリサイタルを企画しようと思います。もしも、笑わずに応援し...

わたしはどうしてやたらめったら演奏会に行くのか

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やたらめったら演奏会に行くようになってしばらく経ちます。 今年の1月から、毎週水曜はパリ管弦楽団の演奏会に行こうと決めて、2月からはラジオフランスでも気になる演奏会があることを知って、シャンゼリゼ劇場にも行くようになり、春にはオペラも一人で行けるようになり…当日券買えなくて泣くなく買えることも増えました…。 手帳にチケットを貼っているのですが、チケットの厚みで手帳がかなり膨らみました。 一人で行って、一人でインスタなりツイッターなりに上げて。それを見た人から「なんでそんなことしてるの?」と言われることが増えた…ような気がします。それ以外の目新しい露出がないがためにそのことを聞かれるだけかもしれないですけど。 いつもバラバラなことを答えている気がするので、改まって、ちょっと理由を書いて見ようと思います。 今しかない 若い人は安いから今聞くしかない。 今は10€とか30€とかで聞ける演奏会 も、あと数年すると70€とか100€とか払わないと聴けなくなりますし。生きていれば歳をとりますから。 安いうちに聴けるものを聴いておきたい貧乏根性…です…。 わたしは一生フランスに居るわけではない わたしはそのうち日本に帰国するつもりなので、フランスのオーケストラや演奏家の音を機会って、無限にあるわけではないのです。そう思うと、少しでも気になる演奏は耳に入れておきたくありませんか。 自分の耳で聴く 人に勧めるときに、「わたしはこれが好きだから、おすすめしたい」と、はっきり言えるようになりたいです。だから、わたしは自分で自分の耳と価値観を育てたいです。 実際パリでも「もう聴きに行くもんか!!!」って思ったオケもあるし、「このオケはちょっと足りないところもあるけど面白いところが多いから好き」っていうオケもあります。誰に言われようと わたしはわたしの耳で聞いたものが全てです。 詳しくないジャンルを「自分事」にする サックス奏者ってサックスの曲ばっかり聴いてません?っていうのが嫌で。サックスの人だって実は、近現代以外の曲に詳しい人多いんですよ。でもわたしはそうじゃなかった。ロマン派も古典派も全然聴いてない、知らない、という状態を変えたかったです。 詳しくない音楽と自分を結び付けるなにかが欲しかったです。「あれはあの指揮者...

「音楽は会話」という件

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「音楽は会話」というけれど、本当にそうだと思う。 会話は相手がいて成立する。相手の言っていることに対して自分が返したり、自分の言っていることに対して相手の返答を待ったりする。相手の主張をくみ取らなければ、会話は成立しない。 言葉だけではなく、テンポよく相槌を打つことも、相手の顔を見るといった姿勢もまた大切だ。  先日アビシャイ・コーエン・トリオのライブに足を運んだ。前から知っているアーティストではあったものの、実際に生で演奏を聴くのは初めてだった。 すごいと思ったことは、アビシャイ・コーエン氏の体の中で音楽が完成していること。それぞれの楽器が、音楽を完成させるために上手く役割を果たしていること。 完成する音楽の形をくみ取って、相槌を打つように伴奏を弾く。タイミング良く自分を主張する。お互いに顔を見て、笑ったり動いたりしながら演奏する。会話そのものだった。 わたしは「ドラムがいる編成ではドラムが主導権を握ってしまうものだ」という思い込みを持っていたけれど、その思い込みはこの日崩れた。 ドラムは主張しつつも寄り添っていて、ピアノとベースで作られた音楽を広げることに重きを置いているかのようだった。かっこよかった。 音楽は会話だというけれど、会話を円滑に進めるにもコツややり方がある。 アンサンブルがうまくいかないときはある。そんなときは、会話のどんな要素が足りないのか考えたい。

眠くてもなんとかやっていく

毎日やろうと思っていたことをやらないと、どんどん億劫になる法則、なんなんでしょうね。継続は力なりというけれど、継続することがそもそも大変で、これだけ大変なことをやっていれば力はつくだろう、そりゃそうだ、とか思ったりしています。 なんでそんなことを思うのかというと、そういえばブログをだいぶ書かなくなってしまった、と思ったからです。別に誰も見てないし、誰の役に立つことも書いてないし、かっこよくもなければおもしろくもないし、あーあ、って思いながら。また書いていきます。書いていきます。 そうそう、最近は配信をちゃんとまいにちやっています。 オーガナイザーさんのほうでデータを見られるようになったので、データを参考にしつつやっています。やはり可視化はやる気につながるのだと実感しました。 可視化は良い、と思って、以前なんだか飽き飽きして消してしまったStudyPlusのアプリももう一度インストールしました。 「まいにちやらなければ!!!!やらなければならない!!」 みたいな、狂気じみた感じではなくて、 「あ、今日まだやってないな…やっとこ~」 みたいな、ゆるい感じでいきたいものです。 最近とあるアイドルをプロデュースするゲームをやって、あれ本当に、よくできていますよね。毎日やるべきことや目標が示されていて、それをこなすことでアイテムをゲットできて、それに沿ってやっていくと少しずつ進歩するという。よくできていますよね。本当によくできています。すごいです。日常もそういう風でありたいです。 ただ最近ちょっと億劫になってしまってログインできていないのですが。あんなに楽しいのに。なんなんですかね。どうして億劫になるんでしょうね。 しかしながらできないことに一喜一憂しているとまたメンタルがだめだめになってしまうので、やれてもやれなくてもなんとか生きていくのみです。おやすみなさい。

我々はどこへ向かうのか

ハンブルクに旅行に行ってきました。帰ってきて、なんだか夢を見ていたような、そんな気分です。旅行のことは追々書きたいのだけれど、日記を書いたりすることも放棄していたのでそこからまず追いつかねばならず、でもそれをやらなければすべて記憶の彼方に消えていきそうで、それは嫌だなと思って、手帳に日記というかメモ書きをして残そうと思って、います。 それを思いながら手帳を開きながらこうやってブログの編集画面を開いているのですから、まあ、後回しにしがちです。 ひとりでは生きていけない、ということをすごく感じています。ひとりだったらフランスで音楽を勉強するとか言って好き勝手過ごすことはできないし、生活すらままならないだろうし、こうして旅行をするときに先輩によくしていただいたりだとか、普段からSNSで誰かと言葉やいいねを交わしたりしていることとか、もっと究極を言うとわたしが食べる何かを作っている誰かや電車を運転させている鉄道会社の人とか政治家とか、とか、いろいろあるけれど、とにかく一人では生きられない、一人では生きられないということを強く思います。それはなんだか、とても不自由で、不自由であることを認めなければ先に進めないのだと思っています。でも、私はどこに向かおうとしているのでしょうか。 私は音楽がしたいです。でも音楽をしたいなら、孤独に頑張ることも絶対必要です。でも孤独感にさいなまれていては、努力の質が落ちることはわかっています。でも、だれかにプライドを傷つけられてへこむくらいなら孤独なほうがいいのかもしれないとか。プライドってなんなのでしょう。 わたしは本当に音楽がしたかったのでしょうか。一人になりたくない、誰かと一緒に居たい、でも集団は嫌だ、そういうわがままをいって、たいして努力もせずにじっとパソコンの前で座っていろいろやっているだけの毎日よ、なんなんでしょうこれは。自分の音楽でもってすべてを打ち負かしてみたいものです。でも誰を負かしたいのでしょうか。勝ち負けってあるんでしょうか、それって、一体なんなんでしょうか。 Showroomの配信を最近やっていて、ファンをたくさん集める、ということは味方をたくさんつけるということだと思うし、でもファンという集団が突如現れるのではなく、ひとりひとりの関係がある、それだけだと思うのですよね、なにか、フォロワーの数が足りない…とか...

やたら演奏会に足を運ぶことにした自分の心境の変化についてのメモ

「クラシック音楽のコアユーザーは日本では1%ほど。秘密結社みたいなもので、クラシックを好きな人は秘密結社の一員だということに誇りを持って聴いていこうね」という、茂木健一郎さんの何でも相談室の回答、短いですがとても好きなのでみなさん読んでください https://t.co/XPjcV2H7aG — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2017年12月1日 (学生が演奏会行かない云々、という話題、実はトラウマなので過剰反応してしまうんですが、何で聴きに来ないの?と名指しで声をかけるとき、我々は秘密結社の一員に過ぎないということを忘れがちではありませんか) — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2017年12月1日 #2018年の目標 目的 ・演奏会に行くフットワークを軽くする ・耳を肥やす ・普段聴く音楽の中でクラシックの割合を増やす 目標 ・毎週水曜夜はパリ管、という予定を固定する ・予習する(プレイリストをつくる) ・新しく知った曲をメモする ・演奏会の情報を集める 報告していくので見守ってください… — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年1月2日 去年3回くらいパリ管聴きに行ってると思ってたら2回しか行ってなかったし、今年も既に3回くらい行ってるかと思ったら2回しか行ってなかった。 記憶は曖昧、記録は正確…。 — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年2月4日 やみくもに演奏会聴きに行ったって何にもならんよ時間と金の無駄だよ、って思われるかもしれないですが、本当にとにかく何でもかんでも選りすぐりせずに足を運べば何か道が開けるような気がしている。本当に無駄かもしれない。 — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年2月4日 「留学中は毎晩演奏会に足を運びました」みたいな美談ちょいちょい聞くような気がするんですが、本当にほぼ毎晩オケ聞けそうなくらいいろんなオケの演奏会あることを最近知って、でも既にチケットない公演ばっかりで悲しんでます。キャンセル待ちしてるけどキャンセル出ないし。 — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年2月4日 以前は、行った演奏会のプログラムを逐一SNSに上げる人の気持ちがよくわかりませんでした。こうなってしまった...

共感に救われる日が来るとは思っていなかった

追って話すかもしれないし、話さないかもしれないけれど、昨日少し嫌なことがあった。 「困ったときは相談してね」 「きちんと言い返さないとダメだよ」 「納得するまで引き下がるな」 「嫌なことは忘れて、別のことを考えろ」 ……などなど、他人に対しては言える。でも、いざ自分が困ったときは、全然ダメだ。ダメだった。自分はあの状況で折れてはいけなかった、それだけは言える。 こちらが論理的に客観的に話を進めようとしても、感情論に持っていく人がいる。そうするとわたしは弱い。 年齢の割にリテラシーが低く、未熟で、軽いうつ状態でもある人を、感情的な攻撃で打ち負かすことは簡単だ。なにもかもお前の未熟さのせいだと、そう解釈できるセリフを吐けば一発で崩れる。崩れるときは自尊心も道連れだ。 短くはない付き合いのある人だから、お世話になった人だから、お礼をしたい、迷惑を掛けたくない、怒らせたくない、悲しませたくない、そういう気持ちが少なからずある。だから簡単に負けてしまう。何が正しいのかすらわからなくなる。 打ち負かされてから一人になり、やるせなさや悲しみが込み上げてきて、そんな自分に腹を立てたりする。家族に電話をしながら泣いた。そのあと一人でも泣いた。パリに住んでいる友人や、新しく住んでいる家で一緒に暮らし始めた人が、話を聞いてくれた。そうしてやっと、落ち着いた。とても有難かった。 それはおかしいだろう、悪いのはあなたじゃない、と、そういう言葉を掛けてくれる人は、とても大切だ。自分の心なのに、自分の自尊心を立ち直らせることが難しいときはある。なにもかもわからなくなる。そういうときに共感が役に立つのだと知った。 共感したからといって何か生まれるわけじゃない、そんな風に思っていたけれど、決して無駄なものではないのだ。 今日しんどいことがあり、何人かの方が愚痴を聞いてくださったおかげで救われました。「これおかしいかな?」という悩みに「おかしい」と共感してくれる第三者がいることは大切ですね。さもなければ気付きを押し殺してしまう。女の子の共感ベースコミュニケーションも自分の軸を確認するために重要だと — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年3月17日 周りに適応することは人間の本能なので、適応したい相手を予め選ぶ必要があると思いました。自分...

このブログのタイトルを「むかうところてきなし」にした理由

誰から何と言われようと自分が戦いたいフィールドで戦い続けた人だけが勝つ…というのが頭にぼんやり浮かんできた。そんなんちがう邪道だとかなんとか言われたとしてもそれを決めるルールなんてないしな、そうやって戦ってきた人はかっこいいよな、これは一般的になんと呼ぶものなのだろうか、知らんな — 🎷🐕🌿 (@sae_ono) 2018年2月20日 (しかしそうやってかっこよく勝っている方々を見て、自分も勝ちたいと思う反面、そもそも自分は負けているんだろうか、一体誰と戦っているんだろうか、実は世界中どこにも敵なんていないのではないか…などと様々な疑問を浮かばせた末に現在のブログのタイトルを決めたのですがそれを今思い出しました) — 🎷🐕🌿 (@sae_ono) 2018年2月20日 ブログを始めるならタイトルをこれにしよう、とずっと前から決めていました。 「向かうところ敵なし」という言葉の本来の意味は、どこへ向かって行っても勝ってしまうくらい強い、という意味です。なので、わたしが使いたい「向かって行っても実際に戦う敵がいない」という意味は間違いです。 ただ、誰と戦っているのか?と考えてみると、戦っていると思っている相手は、敵ではないのかもしれません。それ以前に、実は、戦ってすらいないのかもしれません。わたしたちが戦っていると思っていることは、実は戦いではないのかもしれないし、勝ち負けなんてないのかもしれません。 そう思うと、わたしが戦っている相手は自分、そう考えられるような気がします。自分は敵であると同時に、一番の見方です。そこで勝てるなら、いつでも独り勝ちだと思うのです。 これが、このブログに「むかうところてきなし」という名前を付けた意図でした。平仮名にしたのはちょうど10文字になるからとかそんな理由で深い意味はありません。自分で考えたくせに忘れてしまうので、覚えているうちに書いておきます。

2月8日(木)越冬について

突然ですが冬の次に春が来るということはにわか信じがたい事実ではありませんか。単に自分が「辛い冬を超えた先に花が咲く美しい季節が訪れる」という解釈を否定したいだけかもしれません。そう思ってやっと自分は冬が好きだという事実を受け入れ始めたのでした。冬は好き — オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年2月8日 「春を待つ」という感覚はいろいろな人が持っているのだろうけれど、雪が踏み固められた道を滑らないように気を付けながら歩かなければならない現時点では特に、先に春があるという感覚が皆無です。これが今このときを感じる正常な感覚なのかもしれないし、わたしが時間を把握する感覚を狂わせているだけなのかもしれません。 寒いとそれだけでなにもしたくありません。布団から出たくもなしい、家から出たくもない。シャワーを浴びるために服を脱ぐのも億劫だし、食器を洗うための水を触るのもためらいます。 でもじゃあ冬が嫌いなのかというとそうでもなくて、寒い日は先輩から頂いたお気に入りの緑色の手袋を付けて出かけられるし、あまりに寒い日は中学生のころから着ているダッフルコートを堂々と着られるし、シチューをつくる喜びとか、あといまわたしの身近な場所にはないのが残念だけれどストーブを囲む感じとか、豚汁を食べる感じとか、けっこう好きなことがあるものなのですよね。 冬はそんなぬくもりをぬくもりとして感じるための静寂や冷たさが用意されている大切な季節だと思うのです。こうやってぬくもりを楽しむ感覚は、考えてみれば過去の積み重ねで、何か特殊な思い出エフェクトがかかって日常に重みを与えているだけなのかもしれないけれど、だとしたら今このときを感じているなんていうのは嘘っぱちなのかもしれません。思い出に浸っているだけですね。一人で。 曲解すれば「辛く厳しい冬を超えた先の美しい季節を演出するための辛く厳しい冬」とも取れる「春を待つ」感覚はわからないでもないけれど、わたしにとっては完全に同意するほどのものでもないと思うのでした。 豪雪地帯の冬はそれは厳しいのだろうけれど、わたしのように雪のあまり降らない地域にいながら暖房の効く家に住んでユニクロのダウンやヒートテックみたいな暖かい服のある時代に生きているのだから、辛く厳しいと表現するほどのものにも感じないのですよね。 未来に来るべき待ち遠...

最近全然更新してなかった

この頃Twitterをなるべく140字ぎりぎりの長文で書くことを心掛けていました。文字数を削ったり膨らませたり、変なところで頭を使ってる感じ疲れます。140字あれば伝えたいことは大体言えることもわかってきました。ブログなんてなくていいのではとも思えるようになりました。まあ、書くんですけどね。 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2018年1月10日 こんなものをつぶやいていたくせに、めっきり書いていませんでした。 目標は毎日更新することだったのですが、全然達成できていません。Twitterに書いて終わりになっていたり、それどころか手帳に書いて満足していたりもします。  そもそものインプットが少ないのかもしれません。積読を読む気にもならず。勉強もまともにしておらず。音楽はいろいろ聴きあさっているつもりではいますが、きちんと聴いているのかどうかという部分は、自信がありません。 本を読んだりした内容とか、誰かの言葉ばかり書いているのもどうかとは思っていました。のくせに、自分の意見に自信が持てない状態でもあります。その結果書くのが面倒になってしまっているような気もします。 読んでほしいという気持ちもあまりないので、興味を引く記事タイトルを付ける気も全く起きないんですよね。この頃見る一般的なブログの形とはどんどんかけ離れていきそうです。気ままに書いていきます。

季節限定が好きなのは女の子だけみたいな言い方しやがって

1月1日ですね。 お蕎麦を食べること以外、年末らしいことを特に何もしないまま、新年を迎えました。 大晦日は、2017年を振り返る気も起きず、ブログを書く気にもなれず、新年の抱負を語る気にもなれず、ただいつも通りの一日でした。スーパーへ買い物に行き、家賃をおろし、洗い物を片付けて。朝は家族と長電話をしました。 特別だったのは、日本にいる友人と、日本の年越しからフランスの年越しまで喋りあかしたことくらいです。年末らしくはないけれど。 フランスの人々にとって、クリスマスを祝うことは特別なことのようです。でも、年末年始に特別なお祝いごとはないようで、さみしいです。 そもそもこの国には、季節を感じる特別な食べ物というものは、日本ほどないような気がします。 スーパーでは12月はブッシュドノエルが陳列され、それが終わればガレットデロワが並びます。バレンタインが近づけば赤いパッケージのチョコレートが並び、4月が近づけばウサギ型や卵型のチョコレートが大量に入荷されます。でも、本当にその程度なのです。 それに比べて日本は、季節の食べ物が多すぎやしませんか。 年始におせちを食べ、2月は恵方巻きを食べ、3月はひなあられを、5月は粽を。 11月、ボジョレーヌーヴォーの解禁に燃えるのも、主に日本人です。そう思うと、10月にかぼちゃ味のメニューが根付くことだって、なんだか納得ですよね。 日本ほど、一年を通して料理や食べ物で四季を感じる文化はないのかもしれません。目にすること、触れることで、移り変わる季節をより意識して、濃くさせているように感じます。 わたしにとって、ある年とその次の年の境目を跨ぐことの特別感は、年々薄れていくばかりです。お蕎麦を食べることで、なんとか年末だという気持ちにさせ、お雑煮とお赤飯を食べることで、なんとかお祝いをする気持ちにさせました。特別な食べ物を食べることは、変わらない毎日に、色を付けるための手段なのでしょう。 みなさま、旧年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。

外国人とネット上で言語交換をしたいとき「これ言われたらスルー」のリスト

先日ネット上で嫌なことがありました。相手はフランス人。言語交換アプリでのやりとりでした。 記録と報告のつもりで、ブログに書こうと思って長文の悪口を綴りました。が、とりあえずのところは言わないでしまっておくことにします。 こうやって心を乱されても、変わらず同じ場所に居座り続けることが、いちばんかなと。 インターネットのいいところ、好きなところ ネット上での人とのやりとりって、手軽で、かつ薄い、そんなイメージです。それがネットのいいいところでもあり、さみしいところでもあります。 でも、言語交換アプリに限らず、時間をかけて、お互いの発信したものを見たり、反応したりしていると、会ったこともないその人を身近に感じたりしませんか。Twitterとか、Instagramとか。 現実では出会いもしなかった人との関係を、じっくり低温で温める。そういう使い方が、好きです。   言われて嫌なことは、目的によって違う わたしは、フランス語の練習をしたくて言語交換のアプリを使っています。 言葉は使ってなんぼです。わたしは友達が少ないので、日本人だというだけで話しかけてくれることは、ありがたいです。だから、来たものにはなるべく、お返事を書くようにしています。面倒になって無視することも多いけど。ごめんなさい。 しかし、たまに「友達がほしい」「直ぐ会いたい」という感じの方がいます。もちろん、そういう使い方も、アリです。ただ、わたしの求めていることとは、また別です。 合わない人と延々とやりとりをさせるのは申し訳ないです。相手は満たされないのですから。 ゆっくりまったり会話して練習したい…という私の場合なら、「こういうのはスルーする!」というポイントを、リストアップします。 ①連絡先を教えて 口を開けばすぐこれ、という人たまにいます。 メールアドレスを教えても「LINE教えて!」みたいなことを言ってくる人もいます。 「え、いまここでやりとりしてるけど、なんでこれじゃだめなの?この関係を外に持ち出してどうすんの?なんで仲良くもない人に個人情報おしえなきゃいけないの?」としか思えない…。 そういう人にも、一応「教える気ないよ」とか「これなら教えていいよ」とか、返事はしていたのだけど、 高確率で面倒なやりとりしか発生しない です。もう一言も返...