「べき」がしんどい

こうあるべき、こうするべき、って言い方って疲れませんか。溢れる義務感。極端な場合は、当てはまらない自分を否定するような気持ちにもなります。たかが言葉されど言葉。もう少し物腰柔らかな言い方でもいいと思うんですけど、どうなんでしょう。

べき、という言い方を使うとき、助言と注意の二つの使い方がある、と思っています。
助言のほうの場合、その人が自分の経験を共有しようと思って、発せられたものです。だからその人の場合であって、必ずしも全員に適応されることでもないです。
注意の場合、危ないとか、死ぬかもしれないとか、単によくないとか、そういうものは「べき」が適していると思います。でも、命にかかわることでないかぎり、その二つの境界線はすごく曖昧です。

助言はすばらしいです、どんどん共有してほしいです。参考になります。でも、あるべき論を盛大に振りかざして、危機感を煽るのもよくない、ともと思います。そういう危機感で擦り減っていくのは、べきを使う人、言われる人、両方だと思います。

みんなもっと後悔してもいいと思います。失敗してもいいと思います。バカみたいな失敗が怖くて恥ずかしいから、あるべき論に縛られるくらいなら、あるべき姿なんて知らなくていいとすら思います。多様性ってそうやってじわじわ広がるものだと思うのです。「どこかに正しい姿があって、それが素晴らしい」みたいなの、これからどんどんなくなっていくはず。

かといって「○○すべき」という言い方をこの世から取り除くことも、たぶん無理です。だいたい、べき、べき、という人の助言は有益なことが多いのです。だから、自分の受け取りかたを変えるのが手っ取り早いのです。

誰かからべき論を受け取ったときに、それが助言なのか注意なのか、選り分けていく。注意は肝に銘じて、助言は言葉を置き換えてみる。そうすることで、自己否定から、自分を守れるような気がします。些細なことですが、言葉の積み重ねは、なかなか侮れません。