本当に受け売りでいいの? / ちきりん著「自分のアタマで考えよう」を読みました

ちょっと前にちきりんさんの「自分のアタマで考えよう」を読みました。本を読んだら何か書こうと思っているのですが、読みっぱなしにしていました。すでにかなり噛み砕かれていて、要約するにできないよなあと思う内容。


なぜこの本を手に取ったのかというと、ちきりんさんがブログで使っている「ツーバイツーマトリクス」という表の使い方を学びたかったからです。
でも、まずそれ以前の問題、自分のアタマで考えることがどういうことなのか、というところにひっかかりました。読み終わっても特に、その部分を思い返しています。

人間、自分の持っている知識をさも自分の意見であるかのよう言いがちです。 わたしもよく、誰かの意見に共感して、それを自分の意見であるかのように話してしまいます。いいものを見て、黙って自分の知識として保存するだけでは、考える力はつかないのです。



ちきりんさんのツイートに、この本の内容とちょっと近いことが書かれていたので、引用をば…

インプットの質が高くて多ければいいわけじゃないです。重要なのは処理する部分。

なんでも音楽に結び付けるのもううんざり感ありますが、音楽だって本当にそうなのです。
いい先生と一緒に勉強すればいい、というわけではありません。教えてもらったことをただただこなしていくのではなく、 何をどうしたいのか、考えなければいけないのです。

先生に教わったことを自分の持っているものとして言うことが多いです。それを続けていると、ずっと自分で解釈することができないままかもしれません。誰々さんがこう言ってた、ではなく、かといってただの感覚でもなく、何か根拠をもって、自分の解釈を言えるようにしたいです。最近はつくづく、そんなことを思います。 

知識とは「過去の事実の積み重ね」であり、思考とは、「未来に通用する論理の到達点」です。ちきりんは知識の重要性を否定しているわけではありません。知識と思考を異なるものとして認識しましょうと言っているのです。 (No.283)
いつまでも誰かの真似ばかりできるわけじゃないですからね。考えたことなのか受け売りなのかすでにわからないことばかりですが、わたしも自分で考える力をつけたいです。



挫折して終わった、途中やりの要約を載せて、本日はお別れです。おやすみなさい。

インプットをアウトプットに

頭の中に刷り込まれた、誰かの意見や知識を、自分が考えたかのように錯覚してしまいます。
あらゆる物事には良い面と悪い面があります。正しい思考の結果であれば、情報を見て推挙する事柄は、良い面と悪い面の両面が出そろいます。そこから、結論としてどちらの面を取るかは、その人次第です。
本来、情報や事実それ自体がポジティブ・ネガティブなイメージを持つことはありません。自分の意見がどちらかに偏っているのならば、知識にだまされた思考だといえます。思考の際は、これまで自分が持っていた知識と、新しく得た情報を、一旦分けておくことが必要です。

自分の頭で考えることは、情報を収集したり、持っている知識から意見を言うことではありません。得た情報をもとに、なんらかの結論を出すことです。結論を出すために必要のない情報を収集するのは、無駄なことです。考える前に、判断の基準を明確にし、その判断に必要な情報だけ、揃えればよいのです。
そして、得た情報=インプットをもとに、結論を導くこと=アウトプットにつなげることこそ、考えるということの正体です。