向き合いたくないことと向き合う12月に

 タイトルの通り。
「そうしたい」というのもあるけれど、「そうなりそう」というのもある。そうしなければそろそろ進めない、ということは何度も思い続けている。

思えば高校生ぐらいまでは、だめになってしまっても、黙ってルールに従うことさえできれば、なんとかなっていた。嫌いだったルールが多かったが、全てが悪いわけでもなかったのだと気付く。その反面、何とか形になってしまうことで、見過ごしてしまうこともある。


大学生になって、自由の中に放り出される。さらに、留学ともなれば、もっと自由度が高くなる。自分を律することのできる人が、生き残る。生き残れなかった私の頭は、まるで溶けている。考えたくない事柄を考えたくないというだけで、誤魔化して過ごしてきた。考えなければならない場面に突き当たれば、唐突に涙が出る。この文章を書いている今も。涙は自他ともに、物事を複雑に感じさせるから厄介だ。

全ての弱音は「自己管理のなさ」という欠点として集約される。

「自己管理ができず、申し訳ありません」というフレーズを使いたい場面がどんどん増えていく。ギリギリだったバランスが崩れ、生活も心も、全てが、だめになる。
自転車はペダルがなくても坂道を下ることができる。上るときはペダルをこがなければいけない。私含め、崩れていく人はペダルのない自転車で坂道を登ろうとしているようなものだったのだ。そうだ、乗り物を変えよう。

自分と向き合うのは、しんどい。
でも、変えたい部分と自分はイコールではないし、自分を変えることも自己否定ではない。何か指摘されることは悪いことではないし、人格否定でもない。
私が乗っていたものは壊れた自転車かもしれないし、三輪車かもしれない。それはセグウェイで代用できるかもしれないし、マウンテンバイクに替えられるかもしれない。
だから、まずは何に乗っているか知り、次に、なにに替えられるか知ることだ。

遅刻魔でも、返事が遅くても、挨拶が苦手でも、変わりたいと思っている限り、何度でもやり直せる世界であってほしい。甘えかもしれないけど、そういう世界をつくりたい。そのためにわたしは変わりたい。