他人の痛みと自分の痛みは全く別物だという話

誰かが辛いという言葉を漏らした時、「みんな辛くても頑張ってるんだから」と返すことはありますか。

わたしはありました。他人に対しても、自分に対しても。

たしかに、結果を残している人たちは、辛いものを耐えてなお地道な努力をしています。しかし、それが「あの人も辛い気持ちを抑えて頑張っているんだからわたしも頑張ろう」になると、自分の辛さががあの人の辛さを超えない限り、辛いとも言えません。それどころか、辛いこと自体をもみ消すことに躍起になったりします。本来使うべき力をそんな場所に使うことは、なんだかもったいないことです。

辛いことは主観的なもので、人によって違います。それぞれが持つ別々の辛さを、比べて大したことないということはできるのでしょうか。主観的なものを客観的に判断することは、とても難しいです。

たとえば、生理痛に苦しんでいる女の子と、股間を蹴られて苦しんでいる男の子、両者の痛みを比べることはできません。どちらも痛い、それだけの話です。

たとえば、足の指に物を落とした痛みで悶えている人に対して「そのくらいで騒ぐな」「わたしはもっと痛い出来事があった」などと言うのは、意味のないことです。

必要なことは、温めたり冷やしたり、何かしらの対処すること、痛みが続くなら検査に行くこと、ではありませんか。

心の問題についても同じです。辛さ、悔しさ、やるせなさ、しんどさ、いろいろな感情を「みんなも」「あの人も」と、言い聞かせて、さもなかったことのようにするのは、意味のないことです。
必要なのは、その感情が生まれた理由をさぐり、原因を取り除いたり、和らげることではないでしょうか。