「春を待つ」という感覚はいろいろな人が持っているのだろうけれど、雪が踏み固められた道を滑らないように気を付けながら歩かなければならない現時点では特に、先に春があるという感覚が皆無です。これが今このときを感じる正常な感覚なのかもしれないし、わたしが時間を把握する感覚を狂わせているだけなのかもしれません。突然ですが冬の次に春が来るということはにわか信じがたい事実ではありませんか。単に自分が「辛い冬を超えた先に花が咲く美しい季節が訪れる」という解釈を否定したいだけかもしれません。そう思ってやっと自分は冬が好きだという事実を受け入れ始めたのでした。冬は好き— オーノサエ🎷 (@sae_ono) 2018年2月8日
寒いとそれだけでなにもしたくありません。布団から出たくもなしい、家から出たくもない。シャワーを浴びるために服を脱ぐのも億劫だし、食器を洗うための水を触るのもためらいます。
でもじゃあ冬が嫌いなのかというとそうでもなくて、寒い日は先輩から頂いたお気に入りの緑色の手袋を付けて出かけられるし、あまりに寒い日は中学生のころから着ているダッフルコートを堂々と着られるし、シチューをつくる喜びとか、あといまわたしの身近な場所にはないのが残念だけれどストーブを囲む感じとか、豚汁を食べる感じとか、けっこう好きなことがあるものなのですよね。
冬はそんなぬくもりをぬくもりとして感じるための静寂や冷たさが用意されている大切な季節だと思うのです。こうやってぬくもりを楽しむ感覚は、考えてみれば過去の積み重ねで、何か特殊な思い出エフェクトがかかって日常に重みを与えているだけなのかもしれないけれど、だとしたら今このときを感じているなんていうのは嘘っぱちなのかもしれません。思い出に浸っているだけですね。一人で。
曲解すれば「辛く厳しい冬を超えた先の美しい季節を演出するための辛く厳しい冬」とも取れる「春を待つ」感覚はわからないでもないけれど、わたしにとっては完全に同意するほどのものでもないと思うのでした。
豪雪地帯の冬はそれは厳しいのだろうけれど、わたしのように雪のあまり降らない地域にいながら暖房の効く家に住んでユニクロのダウンやヒートテックみたいな暖かい服のある時代に生きているのだから、辛く厳しいと表現するほどのものにも感じないのですよね。
未来に来るべき待ち遠しい春をよりドラマティックに演出するための、踏み台としての冬。だけじゃねえよ。冬はお好きですか。