2019年1月15日

信じたり、期待したり、そういうものを純粋に、わたしに寄せてくれる人がいてうれしい。


何者かになりたい、という気持ちがある。でも、もう既に「わたしはわたし」 なのだ、これがわたしの姿なのだ、とも思う。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に「何か」になりたいという気持ちがある、成し遂げたいこともある、不安もある、不安を消すために何度も手のひらのボタンを押す、死にたいとか死にたくないとか、死なないとか、ツイートするほどでもないつぶやきが口から洩れて消えていく、いつかどうせ死ぬのにな、どうせ死ぬ、どうせ死ぬ、

いちばん無に近い場所にいた自分を振り返る。わたしは、わたしは、たしかに、足踏みをしていたかもしれないけれど、でも確実に、ほんの少しだけ、つよくなった。もうひとりで泣いて終わりじゃない、理不尽なことに怒ったりすることもできる。わたしはつよい。わたしはつよい。

こうやって文字にしようと思うとどうしても狂気じみていて、くだらなくて、しょうもなくて、やすっぽくて、こういう自分の思考、すごく嫌です。嫌だけど書き出したらリセットできるような気がしている。気がしているだけかもしれない。なんかはっきりしないことしか言ってないな、


年明けに訪れた鳴門の空がきれいだったので、ばしゃばしゃ写真を撮っていました。よかった。知らない街はいつもきれいです。街灯のない道、単線のJR、まだ電子マネーが対応していないバス、人通りのない住宅街、広すぎるコンビニ、常連さんだらけのうどん屋、やさしい定食屋。うちの音楽院のオケよりも完成度の高いアマオケと、そこに集まるお客さんの話す声の、なまり。なまり。ほんの少しのなまり。

日本もまだ知らない場所ばかりだ、知るっていうのは名前を知っているとは違うんだぜ。っていうのは、「曲名を聞いて歌えない曲は知っているとはいえない」っていう話と同じなんだけど、だから、知るというのは、表面をかすめるだけではたどり着けないものなんだよな、日本なんて知らない場所ばかりだ、

何かわからないけど思わず撮ってしまった写真
鳴門行った話はまた書きたいとか思いながら、ぜんぜん書かないまま1週間も経ってしまました。(それどころか、帰国した時の話も殆ど書いていませんでした)

書き留めないとどんどん、過ぎ去っていくばかりです、こうやってなんとか生きているだけじゃ、だめで、せめてやったこと書き留めておいたら全部あったことにできるんだけど、あったことにできるんだけど、書き留めておかないからなかったことになってしまう
。ありました。 ちゃんとありましたよ。