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誰かと違うということは孤独だ

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小林賢太郎演劇作品『うるう』を観に豊橋まで。 小林さんが演じる舞台を観に行くのは初めて、その時点で泣きそうなほど緊張。 東海道線に揺られること1時間ほど、景色がどんどん、のどかになっていく。まるでジオラマの世界にワープしてきたみたいだなと思いながら、小さな木と周りに落ちている蜜柑を眺めていた。 快速で一駅手前の蒲郡は蜜柑の産地。学生時代に市民楽団のお手伝いでよく来ていたので、この車窓は懐かしい。豊橋駅もまた、青春18きっぷの旅で名古屋から東に進んでいくとほぼ必ず降りて乗り換える場所。懐かしい。 久しぶりの豊橋駅、後輩の演奏を聴きに行った数年前(いつだ?)以来のPLAT。 劇場に入ってチラシの写真を撮るお姉さんがいた(わたしだけじゃなかった!)。 進んでいくと、あふれんばかりの人、人、人。トイレの行列、物販の行列、それもなにかうれしくて泣きそうだった、 小林賢太郎、名前が知られていない、テレビにも早々出ない、そういう人の舞台が観たいなんて話していたら、親から変人扱いされてきた。でもこの人込みを見て、わたしは変ではなかったと確信する。いや逆に言えばこんなに変な人がいるのか。どちらにしろうれしかった。 物販の列に並ぶのは恥ずかしかったので、そのまま席に着くことにした。ホールに入ると、幕が、森。草のセットもある。そして聴こえる鳥の声。ときどき水の音。 うむ、こういう世界観なのか。 影アナが入る。影アナが終わる。もうはじまるか、まだはじまらないか、誰かが咳払いをしたりしゃべったりして、それもなくなってだんだん静まり返り、完全に鳥の声だけになったとき、一瞬でチェロのチューニングのような音が耳に飛び込み、客席のが暗くなる。 音と映像、うるうびとを彷彿とさせるアニメーション、題字の「うるう」が舞台上に映し出され、現れた小林さんの姿。初めて生で聴いた小林さんの声。正直普通だった。毎日聴いていた声がそこにあるというだけだった。生で聴いた声に感動して泣くかと思っていた自分、そんなことで泣かなくて安心した。姿は遠かったのでよく見えなかった。オペラグラスを用意していたけど、徳澤さんの足元を見るためにしか使わなかった。使えなかった。 ネタばれはしない、しないから内容のことは何も書かないつもりなのだけど、序盤からぐしゃぐしゃに泣いた。周りの人は全...

向いていなくても続ける / 物書き日記 1月13日

11月からライターとしてのお仕事を始めて早2ヶ月。収入は本当に些細な金額で、精神的にも「もう向いてないや……」と思って折れてしまいそうです。    が、ある単純なことに気が付きました。わたし、書き上げるスピードが圧倒的に遅い。調べる速度も遅い。構成が下手だから途中で躓く。課題は山積みでした。 文章を書くことはもっと得意になりたいんです。 だから「向いてないや……」で終わらせたくない。向いていなくても続ける。毎日少しずつでも文字を書いて、書いて、書き続けて磨きます。 当分はログを取りながら(ここで公開しながら)速度と完成度を上げていくようにします。ブログとしてはつまらないものですが、日々の記録から少しずつ成長が感じられたらいいな、なんて思っています。 どうぞよろしくお願いします。おやすみなさい。 2020年1月13日 (月) 書いた記事(お仕事):1本 総文字数:2500文字

12月が終わってしまった

気がつけば12月が終わってしまいました。 昨年も大変お世話になりました。 今年もよろしくお願いいたします。 実は年末に限らず、お祭りムードはちょっと苦手、な、ときがあります。 今日はリビングでほんの一瞬だけ紅白を観て、 紅白に盛り上がるTwitterのタイムラインを閉じて、紙とテキストエディタを開いて夜を過ごしました。 仕事との向き合い方、スケジュール感やクオリティはまだまだ褒められたものではありません。それでも「年末年始働きながら過ごす」という思い描いた姿に一歩近づけたことは、自己評価しようと思います。評価内容は非公開です。 変わらぬ毎日の、変わらぬ月の変わり目に感謝したいです。特別はうつくしいけれど、なんでもない日々もまたうつくしいものです。 どうぞ今年も、よい毎日を。おやすみなさい

吐瀉物

今のアカウントを作る前、たくさんたくさん裏アカンウトを持っていた時代。大学用アカウントでしょっちゅう「吐瀉物」とつぶやいていた。 ある方がそうつぶやいていたのを見て真似していただけなのだけど、次第に吐瀉物の3文字に全てをぶつけているような気持ちになった。 「クソ」や「うんこ」「うんち」にはふざけた意味合いすら感じられるのに、「大便」は中途半端に真面目だ。それと同じように、吐瀉物の3文字は、表しているものは汚いのに理性的に発してる感じがあった。ギャップが面白かった。 「クソ」とか「畜生」とか言うのはよくあるけど、それはやりきれない想いだとか、上手くいかないもどかしさだとかを表現するものだと思う。別に言葉そのものの意味は関係ない。発することで発散されるというか、自分の意志で感情を表現している感じになるというか。 そういう言葉と同じように、わたしも何かをかき消したくて、断ち切りたくて、吐瀉物と書いていたんだと思う。 今も上手くいかないことはいろいろある。 上手くいかないなんて当たり前なのにいちいち嘆いてる自分、 そもそも頑張る方向が違いすぎると思う自分、 反応ばかり気にしている自分、 反応が怖くなって続けるのも怖くなっていく自分、 動かない自分、 やらない自分、 とにかく自分が嫌いだ。 自分を肯定しよう! というツイートを下書きに書いている自分も嫌いだ。何が肯定だ。何を人に偉そうなこと言ってるんだ。自分のことも肯定できてないじゃないか。 今も吐瀉物という3文字をツイートしたい気持ちを抑えている。気持ちを抑えても中身が変わらなければ結果は同じだ。おやすみなさい。

終わる

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毎年誕生日にブログを更新しているのでなにか書こうと思って書いているけれど、内容のない雑記みたいなものしか書けないので期待しないでほしい。散文です。 年々誕生日に対する感覚は変わってきている。 10歳くらいの頃は歳をとりたくない大人をたくさん見てきたから、自分もそうなるんだろうと思っていた。だんだん、歳を重ねるにつれて美しさが増していくような人になりたいと思うようになった。 それから今、周りの人たちが自分をアラサーだと自虐しているのを見て「アラウンドではなくちゃんと数えなさいよ、その年は一回しかないんですよ」などと思うなどする、よくわからない感じになってしまった。 26歳になって、若いとも老けたとも思わず、ただ数字が一つ増えた、そういう認識でぼんやりしている。 26歳、日本国内のコンサートは若年料金で入れない年齢になった。 18禁を飛び越えるより、20歳でアルコール解禁になるより、コンサートの料金設定にあるU25に当てはまらなくなったことのほうが、確実に大きな何かを跨いでしまった。お酒もエロも当時はそれほど興味がなかったのでそりゃそうなのだけど。 不思議なことに、学生という身分を手放して、学生料金を使えなくなったことに対してはそれほどいろいろ思わなかった。むしろ誇りに思う。やっと学生という身分から解放されて、一人の人間として認められているような、そんなふうに思えるのだ。大人になっていくってなかなかうれしいことだ。むしろこんなに長い間こどもの気分でやっていたのか、自分は。 *** 26歳の誕生日プレゼント、自分へのプレゼントはキーボードになりそうです。1000円もしないキーボード、しばらくはよろしくたのみます。 26年目の人生は、文字を書くことにもう少し重きを置いて過ごします。こういう散文も楽しんでいきたいです。 あと感謝。感謝。生きていることが素晴らしい。26年もよく生きた。途中で自殺とかしなかったし、大きな事故や事件に巻き込まれることはなかった。助けてくれる方がいて、理解してくれる方がいて。とても運がいい26年間でした。ありがとうございます。 これからのことはわからないけど、病気だって事故だって事件だって、避けようはないので来たら受け入れる……だけの強い人になりたい。です。 ***  朝起きて思ったことがある...

日記

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明日フランスを離れる。 考えるべきことが大量にあって頭が全く追いついていない。 今ここにある荷物どうしよう?を考えなければいけないのに、これからどうしよう?が頭をよぎる。邪魔だ……。 3年もいたけど友達が全然いなかった、という事実にいちいち消耗する。 フランス3年もいて近々帰るけど、改めて会っておきたいような友達が殆どいない。友達が全然いないから演奏会ばかり行けたんだな、なんてしみじみ思う。 でも、ひとりで演奏会ばかり行けたから、誰かとの共通の話題を作ることが出来たし、知識は深まったわけで。これがなかったらそれこそ孤立してたな — オーノサエ (@sae_ono) October 25, 2019 出会いはあったのだからもっと社交的になるべきだった、なんていちいち思う。そうしなかった、できなかった、したくなかったのは自分なのにな……。  (なおこの葛藤は、かつてのクラスメイトと一緒にごはんを食べに行ったことで若干解消された) 誘われていた本番が国籍の関係で出られなくなったので、楽器だけ貸してた友達たちから、ごはんをおごってもらうなど。 ごはんのあとは、アドルフサックスさんとベルリオーズ先生のお墓に寄ってきた。 またいつか必ず、今度こそはお互いの国で一緒にやろうねと約束して、お別れ。さみしくなるなあ。 pic.twitter.com/37ODCN026c — オーノサエ (@sae_ono) October 30, 2019 いい職場にありつけるかどうかは運だけど、運よくいい職場にありつけてしまったアルバイトのことも、頭によぎる。 接客中に手は震えるし、言葉は詰まるし、明らかに向いていなかったけど、向いていないことでもコツコツやっていけば楽しくなるし、面と向かって言われなくてもちょっと頼りにされていることは伝わってくる。面と向かって言われたこともあった。うれしかったけど、さみしくなった。 それもまた、きちんと仕事ができるように育ててくれた、いい上司に恵まれたからにすぎないのだけど。いい職場にありつけて、楽しく働かせてもらって、とてもありがたかった。 バイトしてたとき、上司たちから 「一時帰国にしなよ!」などと言ってもらっていたのを思い出している。苦手だった仕事で頼りにされ始めたことは...

「下手」は演じる意味のある要素

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このごろ、毎日ではないけれど毎日のように、何か観に行っています。 先日、舞台を観て思ったことを、ちょこっと書いておこうかと。 パラードという舞台を観に行きました。 肝心の本題、新作のパラードは、スタイリッシュな演出のサーカス、といった感じ。 笑いを誘ったかと思えば、すごい動きに驚かされたり。楽しいひとときでした。 音楽は、前半がダッカブラッカという民族音楽グループ。 後半はマティアス・ピンチャー指揮、アンサンブル・アンテルコンタンポラン。👏 pic.twitter.com/Ps0ERpUxRT — オーノサエ (@sae_ono) September 13, 2019 超絶技巧のパフォーマンスに、かっこいい演出と、音楽を添えたものです。客席からは何度も、拍手とどよめき、それから笑いが起きていました。楽しかったです。 なかでも、わたしが一番心に残っている場面があります。普通の青年とパフォーマーの女の子が、舞台装置で遊んでいる……という場面です。 ( Arte Concertの録画から ) この青年を演じている人も、普通を演じているだけで、パフォーマーです。この直前も、踊ってましたし。 でも、盛大に転ぶ。何度も転ぶ。 なにより、とても美しく転ぶ。 この場面はほんの2分間ほどで、舞台全体を見れば大した場面ではないのかもしれません。 でも、舞台にいるふたりは笑っていて、思いっきり楽しんでいるように見えて。とても美しくて、かっこいいなと思いました。 漫才のボケは頭が良くないとできない、というのは、ときどき聞きます。 下手な演技は上手くなければできない、というのも、それに近い気がします。 ボケが笑いを生むための、大切な要素だというのと同じように、「下手」は、場面によっては演じる意味のある要素、だということ。それがなんだか、とてもいいなと思ったのでした。 現在進行形で「下手」な人、演技ではなく本当に下手な人、わたし含めて、たくさんいると思います。 理想とは遠くかけ離れている現状に、悲しくなることもあります。そんなとき「成長の過程が大切」だとか、さまざまな励ましの言葉も、虚しく響くばかりです。 この現状も、演じがいのあるものだと思えたら。成長の過程だって、楽しんだり、大切に思えたりする...