文藝春秋SPECIAL2017年秋号を読んでいます。雑誌です。全部理解することはたぶんできないので、だいぶななめ読みで読んでいます。難しい…。
作家の橘玲さんと、脳科学者の池谷裕二さんの対談に、ひっかかるところがあったので、抜き出したいです。本文とほとんど関係のない意味で。
無意識の鍛え方は反復にあり
記憶、知能、判断や決断など、脳が行っていることの大半は無意識から来ているもの。なので、その無意識を鍛えることが、自分の能力を鍛えることになる。しかし、意識的に無意識にアクセスすることはできないのに、どうやって無意識を鍛えるのか?という話の流れから、池谷さんはこう言っています。スポーツ選手や音楽家、将棋や囲碁の棋士が日夜、行っていることが参考になると思います。彼らは、ひたすら同じ課題の反復練習をして、体に覚えさせている。いちいち「意識」が考え、その場に合った答えを出すのではなく、ある特定の環境のなかに入ったら、条件反射的に「無意識」が考え、最善、最良の行動ができるように鍛錬しているわけです。彼らの優れた「直感」は、その鍛錬から出てくるものです。 (池谷 No.925~)以前わたしは「即興演奏の練習は音楽の仕組みを体に落とし込んで感覚で演奏できるようにすることなのでは」という仮想という記事をこのブログに書きました。この一説を読む限り、あながち間違いではないのかもしれません。
音楽の場合、曲ではなく、どうやるかを、無意識へ。
囲碁や将棋の棋士が、音楽家やスポーツ選手と同じ括りになっているのは、音楽を練習することが、何かの曲を弾けるようにすること、楽器の操作を得意にすること…だけ、ではないことを、決定づけているような気がします。勝負の世界での練習は、何かを再現することではなく、無意識で最良の行動をするための練習です。
最近、ジャズで使う旋法の練習などを、投げ出さずに取り組んでいます。 クラシックでも、初見をもっと強くならなきゃね、と先生に言われたりして。
以前から持っていた「暗譜して自分を曲に慣らす」というスタイルをどんどん壊さなきゃいけないと思っています。
でも、曲に慣れるんじゃないならなんなんだ?と思うけれど、それもやっぱり慣れなんですよね。それをどう慣らすのか、という部分が違うだけで。
曲に慣らすのではなく、やり方を慣らす。
無意識でできるように、やり方を、落とし込む。
もう一年くらいそういうことを考えていたっぽいのですが、やっと少し開けたような気がします。
たくさん練習して、曲やフレーズを覚えて、満足に演奏できるようになるのは、あたりまえのことなんですよね。それは、時間をかけて練習すれば上手になれる!という希望でもあるけど、時間しか武器がない!という絶望でもあって、時間がないときは下手くそ!という危険と隣り合わせだと思ったりする。— Saé ONO (@biiibibi3jpn) 2016年12月9日
わたしはたくさん初見して、たくさん曲を仕上げて、どんな楽譜にも強くなるしかないんだろうな〜、っていま思ったりしていて。— Saé ONO (@biiibibi3jpn) 2016年12月9日
それって、作品を自分に馴染ませるのではなく、自分を作品に寄せられるようになること、なのかなとか思ったりしていて。