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Showing posts from December, 2017

外国人とネット上で言語交換をしたいとき「これ言われたらスルー」のリスト

先日ネット上で嫌なことがありました。相手はフランス人。言語交換アプリでのやりとりでした。 記録と報告のつもりで、ブログに書こうと思って長文の悪口を綴りました。が、とりあえずのところは言わないでしまっておくことにします。 こうやって心を乱されても、変わらず同じ場所に居座り続けることが、いちばんかなと。 インターネットのいいところ、好きなところ ネット上での人とのやりとりって、手軽で、かつ薄い、そんなイメージです。それがネットのいいいところでもあり、さみしいところでもあります。 でも、言語交換アプリに限らず、時間をかけて、お互いの発信したものを見たり、反応したりしていると、会ったこともないその人を身近に感じたりしませんか。Twitterとか、Instagramとか。 現実では出会いもしなかった人との関係を、じっくり低温で温める。そういう使い方が、好きです。   言われて嫌なことは、目的によって違う わたしは、フランス語の練習をしたくて言語交換のアプリを使っています。 言葉は使ってなんぼです。わたしは友達が少ないので、日本人だというだけで話しかけてくれることは、ありがたいです。だから、来たものにはなるべく、お返事を書くようにしています。面倒になって無視することも多いけど。ごめんなさい。 しかし、たまに「友達がほしい」「直ぐ会いたい」という感じの方がいます。もちろん、そういう使い方も、アリです。ただ、わたしの求めていることとは、また別です。 合わない人と延々とやりとりをさせるのは申し訳ないです。相手は満たされないのですから。 ゆっくりまったり会話して練習したい…という私の場合なら、「こういうのはスルーする!」というポイントを、リストアップします。 ①連絡先を教えて 口を開けばすぐこれ、という人たまにいます。 メールアドレスを教えても「LINE教えて!」みたいなことを言ってくる人もいます。 「え、いまここでやりとりしてるけど、なんでこれじゃだめなの?この関係を外に持ち出してどうすんの?なんで仲良くもない人に個人情報おしえなきゃいけないの?」としか思えない…。 そういう人にも、一応「教える気ないよ」とか「これなら教えていいよ」とか、返事はしていたのだけど、 高確率で面倒なやりとりしか発生しない です。もう一言も返...

Uberでぼったくりっぽい領収書が届いたので、返金の手続きをした話

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12月に入って初めてUberを使いました。 けっこう呆れるようなタイミングで使っているので、どういうタイミングで使ったのかとかそういうことは聞かないでほしいです。別に誰も聞いていないですよね。 これまでに2回使いました。快適でした。 Google Mapで経路検索してそのまま予約できるので、ハードルが低く、サービス自体の使い心地もよいです。 アカウントに登録したカードで自動的に支払われるので、ドライバーさんと直接金銭のやり取りをすることはありません。予約をするときに、おおまかな金額が表示されます。実際に払った額は、後でメールで送られてくる領収書で知ります。 ところが先日、使おうと思って予約はしたけどドライバーさん側からキャンセルされたような状態になり、乗車していない分の領収書が届いたので、その話をしたいです。 ドライバーからのキャンセル 夜に、お呼ばれしてごはんをごちそうになりに行きました。終電のことなんてすっかり忘れていて、気が付いたらうっかり終電なんてない時間になってしまいました。Uberを予約しても、直ぐにドライバー側からキャンセルになってしまう状況。他の配車サービスでも同じように、その時間帯ではなかなかつかまらないようでした。 何度かやっているとようやく、こちらに向かってくれるドライバーさんを予約をすることができました。アプリ上に「あと9分」という表示が出ました。しかし「あと6分」くらいになってから、地図を見ても迷子になっているかのようで、明らかにこちらに向かってこないのです。 そうこうしているうちに、時間の表示が消えました。おやおやどうした?と思っていたら、電話がかかってきました。電話は聞き取れなかったのですが(すみません)、これまでのドライバーさんは到着するときに電話をかけてくださっていたので、もう着いたのかと思って待ち合わせの場所に行きました。が、誰もいませんでした。 電話をかけなおしても自動応答。アプリを見ると「目的地に到着しました」との表示。 いや、そんな早く着くわけないよ…と思いながら、バグだろうと思って、気に留めずにいました。 結局その夜はタクシーを呼んでいただいて、タクシーに乗って帰宅しました。 翌朝、メールの受信箱を開くと、Uberからの領収書が届いているではありませんか。 Uber側の対応 ...

他人の痛みと自分の痛みは全く別物だという話

誰かが辛いという言葉を漏らした時、「みんな辛くても頑張ってるんだから」と返すことはありますか。 わたしはありました。他人に対しても、自分に対しても。 たしかに、結果を残している人たちは、辛いものを耐えてなお地道な努力をしています。しかし、それが「あの人も辛い気持ちを抑えて頑張っているんだからわたしも頑張ろう」になると、自分の辛さががあの人の辛さを超えない限り、辛いとも言えません。それどころか、辛いこと自体をもみ消すことに躍起になったりします。本来使うべき力をそんな場所に使うことは、なんだかもったいないことです。 辛いことは主観的なもので、人によって違います。それぞれが持つ別々の辛さを、比べて大したことないということはできるのでしょうか。主観的なものを客観的に判断することは、とても難しいです。 たとえば、生理痛に苦しんでいる女の子と、股間を蹴られて苦しんでいる男の子、両者の痛みを比べることはできません。どちらも痛い、それだけの話です。 たとえば、足の指に物を落とした痛みで悶えている人に対して「そのくらいで騒ぐな」「わたしはもっと痛い出来事があった」などと言うのは、意味のないことです。 必要なことは、温めたり冷やしたり、何かしらの対処すること、痛みが続くなら検査に行くこと、ではありませんか。 心の問題についても同じです。辛さ、悔しさ、やるせなさ、しんどさ、いろいろな感情を「みんなも」「あの人も」と、言い聞かせて、さもなかったことのようにするのは、意味のないことです。 必要なのは、その感情が生まれた理由をさぐり、原因を取り除いたり、和らげることではないでしょうか。

フランスにおいでよ

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自分への取材手帳リレーマガジン、遅ればせながら更新しました。 音大と音楽院の学費を比較したよ #自分への取材手帳 #お金のこと|オーノサエ|note そのノートで使おうと事中に使おうと思って作った表もここに貼りましょう。 言いたいことはだいたいこの表に書いてあります。 いろいろ違うんですよね。どちらも良い面があり、悪い面があり。 わたしは大学に入ってよかったこと49よくなかった51くらいの割合で思ってる。加えて、留学をしたことも間違いだったのかもしれないという気持ちもまた、持っています。 選択肢がいろいろあるといいよね そもそも、日本で音楽を専門に学びたいと思った時に、大学しか選択肢に残らないのが、なんだかすごく厳しい現実…のような気がします。 専門学校も確かにあるけれど、殆どの音楽学校が、ポピュラー音楽の学校ですよね。クラシックを専門に扱う学校は少ないような。音楽大学は、国公立はレベルが高いけれど狭き門でもある。私立は門が広くて学費が高い。 教員や音楽療法士など、なりたい職業に必要なの資格を取るために音楽大学を選ぶ人ももちろんいます。そうではなく、単に音楽を専門的に学びたいという理由で音楽大学を選んだ人も、多いと思います。(そのついでに、教員免許を取る、みたいな人もね!) 音楽院は、フランス語そのままだとコンセルバトワールConservatoirといいます。これは、保存するという意味の動詞"Conserver"から来ています。音楽文化を保存するための機関、そのための教育になるので、国がお金を出して、力を入れているのです。留学生はその恩恵にあずかっているだけにすぎません。 国立はレベルが高いし狭き門ではありますが、それ以外にも公立の学校がたくさんあって、門は広く開かれています。文化を保存しなければならないからです。だから、根本が違う気がします。 ハードル わたしがフランスに行こうと思ったのは高校生の時でした。そう思えたのは、大学を出てからフランスに留学する、というケースを知っていたからです。そもそも、当時から師事していた先生がそうだったので、その影響は強いです。 身近にいるかどうかはともかく、この頃も「留学しているよ!」とネット上で積極的に発信している方が多いです。留学ほどの話ならば、こう...

カウンセリングに行きました。その3

日記です。今日のじゃないけど。 三度目のカウンセリングでした。時間を遅くしていただいたので、遅刻をせずに行くことができました。約束を守ることができると、自己肯定感高まる…。素晴らしい。 今回はエクササイズをしました。 その前に、今日はどんな気分か、この一週間でどんなことがあったとか、どんな変化があったとか、話しました。 この一週間で、誰かに自分の現状を話したり、自分のこれまでを振り返る機会がありました。わたしはそこで、自分の「広く認めてもらわないといけない」という意識があることに気が付いたのです。認められるために音楽をやるのではない、音楽のために音楽をやる、という気持ちはずっとありました。それなのに、認めてもらわなければ意味がないのではないか、とも、思っていて。それが、ぐるぐるしていました。 「認めてもらうことにも意味があるし、認めてもらいたいという気持ちも、生きていくうえで大切なこと」と言っていただいて、そうか、そうなのかも。 承認欲求というと、なんか恥ずかしいもののように思うけど、欲求は必要だから現れるわけで。欲求自体を抑え込もうとしても、意味がないのだということ、すとんと腑に落ちた感じがします。 そうそう、それで、今回はエクササイズをしました。 手法について書くものではないと思うので、詳しくは書かないのですが、自分の身の回りの色々な出来事を思い返して、それを繰り返すものでした。これをまた次回、その次も、しばらく行う予定です。 自分のことではないことを自分のことのように思えるのは、どこからなんだろう、ということをぼんやり考えました。記憶は自分のものなのに、自分のものではないように感じるし、記憶にないことすら自分のもののように感じることもある。 それが、なんだか、不思議なものです。 過去を無視するのでも、なくすことにするのでもなく、それをただあった一つの出来事として肯定する。なんとなくそうわかるのですが、これは、そういうフラットな場所に視点を変える練習なのかもしれません。 またねー

内向的

先月半ばから、サックスを吹くと何故か涙が出るような状態でした。それは主に1人の時でしたが、授業やレッスンなど、誰かと一緒にいてサックスを吹く時も同じでした。そのせいで、サックスを吹くこと自体が億劫になっていました。そういう言い訳をして、ほぼ全く練習をせず、授業も行かず、音信不通になりながら過ごしていたのが、わたしのこの頃です。情けないです。 昨日、レッスンに行って、こんなことになるまえに練習していて見せずじまいだった曲を、ちょっとだけ先生に見てもらいました。取り乱すことなくふつうに吹けました。なんだか程度が低いけれど、それでいいのです。 しかし、さすがに何週間も練習らしい練習をしていないとなると、体が、きついです。 入試のために準備していた曲、試演会のために準備し直すことにしました。入試を受けること自体はやめたのですが、せっかく練習を始めたので、仕上げて終わりたいです。 * 自分をまっすぐ見つめる事は難しいです。捉え方によっては、それ自体が苦しいことでもあります。 誰かと自分を比べることが、悪いのではありません。それもまた、自分について考えるための一つの方法だと理解しています。しかし、それがただ自分を安心させるためであったり、反対に貶めるためのものであるのなら、比べる基準や方法を考え直したいです。 人から掛けていただく言葉も、同じです。誰がどう感じたか、それ自体をとがめることはできず、それをわたし自身がどう受け取るかだけが、わたしの操作できる部分です。褒められたことを素直に受け入れて、アドバイスを正しく噛み砕き消化する。簡単なようでとても難しく。 今は正確に自分と他人と比べることができず、誰から褒められても貶されても耳障りにすら思います。すみません。なので、あまりいろいろ考えないようにします。本当の自分は、自分の中にしかないと、つくづく思うのです。 周りの成長、言葉その他に振り回されるのではなく、しっかりと自分の軸を持って、どんな状況に置かれても腰と構えることができたらいいな、と思っています。追いつく追い越すをモチベーションにするのではなく、自分の内側から、自分自身の成長を楽しめるような、そんなモチベーションを手にしたいです。 気合を入れずに、ゆるゆると、こういう感じで、じっくり気持ちを上げていきたいです。あと、この状態になっ...

ハラスメントについて考えたこと

元電通の岸勇希さんのセクハラ・パワハラについて証言した記事が公開されました。数か月に及ぶ取材中も、自分と相手の実名を出すことへの葛藤がありましたが #metoo のムーブメントが背中を押してくれました。リスクを背負って証言してくれた関係者の皆様に感謝しています。 https://t.co/Ymy4UOiCpu — はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月17日 以前はあちゅうさんがTwitterで「時がきたら言います」と書かれていたことを覚えている。だから、寝起きの頭でBuzzFeedの記事を読んでまず、時がきたんだと思った。 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月17日 いつか戦う時がきたら言います。お仕事関係者に迷惑をかけないタイミングで。 https://t.co/RXyXxwSFDz — はあちゅう (@ha_chu) 2017年9月30日 "自分が我慢すればいいと思うと、他の人の苦しさも受け入れられなくなってしまいます。『私は我慢していたのだから、みんなも我慢すればいいのに』と私のように心が歪んでしまう前に、どうか、身近な誰かに相談してみてください" https://t.co/4ege5iRfaB — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月17日 パワハラは、 ・自分にとって重要な上下関係で、 ・断れない状態で物事を押し付けられて(「▲▲をしたいなら●●しろ」というような)、 ・公にすると相手の地位が崩れる可能性大 ・か、公にしても相手側の事情でかき消される から泣き寝入りするしかない、という実態を最近の世の動きから学びました、 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月17日 泣き寝入りしない=実名で公表すること、だと思うのだけど、実名の破壊力はすごい。はあちゅうさんが過去に相手の名前を伏せて書いた文章(あちこちにある)はこれ以前も少し読んでいたけど「そういうことがあるんだ」くらいにしか思っていなかった。 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月17日 で、仮に尊敬している師匠や先輩からパワハラを受けていたと...

会話

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日記です。 昨晩は、同じ学校の日本人のみなさんとの飲み会に。楽しかった。大盛り上がりだった。わたしが話したことは三つか四つくらいしかなかったけど、どれだけ白熱していてもわたしの発する言葉にすっと聴き耳を立ててくださって、みなさん本当に音楽家だなあと。 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月17日 昨日は、同じ学校に通う日本人のみなさんとの飲み会に、行きました。 みなさんが夜な夜な手作りの食べ物を用意されているなか、わたしは料理がそれほど得意でないので、悩んだ末、ケンタッキーを買って持って行くことにしました。 手作りのもの、本当においしかった…。でもちゃんと、おいしいです!って言えなかった。今度食べさせてもらうときはすぐにおいしいです!おいしいです!って言おうと心に決めたので、ここに書いておきます。 誰かの手料理はなぜこんなにもおいしいのでしょうか…。 会話のできなさについて、夏ごろからずっと悩んでいました。 それは音楽が会話だから、音楽につながるから、自分は会話が下手だから音楽に対してそれがひとつの障害になっているのではないか、という部分から来ています。ただ会話ができないというだけだったら、あまり悩んでなかったかもしれません。 でも、会話って、わたしが思っているより、めちゃくちゃなものでした。どんどん話が変わっていく。どんどん道がそれる。めちゃくちゃ楽しかったです。会話のキャッチボールにはうまく参加できなかったけど、みんなが話している内容がどんどん変わっていくのです。一人でつむぐ言葉が、こんなふうに、自分を想定外の場所に運んでくれることは、あまりありません。だからとても、楽しかったです。 うまく話せたら楽しいのにな、と思うし、少人数だと話せるのに大人数になると全然話せないの嫌だな、と思うし、話さない感じ悪い嫌なやつだなと思わせてしまったかもしれないしそれは嫌だな、と思うけど、わたしからみなさんへは、またすこし心を開けられたような、心の温度が一度だけ上がったような、変な感じだけどそんな感じがします。ありがたい。

「全ての表現は手紙の様だと思いませんか?」

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中学三年生のとき、国語の授業で「メディア社会を生きる」という教材を扱った。これは、人々が受け取る情報と、その情報源=メディアとどう向き合うか、ということを考えるものだった…と思う。 この一連の授業の中で、メディアと情報を分類する場面があった。 テレビはメディア。ラジオはメディア。ニュースは情報…、というように、どちらかに分けるというものだ。 音楽はどちらか。 わたしのクラスでは「音楽はメディア」と答える人が、すこし多かった。「音楽は情報」というのが、正しい答え。しかし、音楽はメディアだと答えた人たちはこの答えに納得ができず、反論した。わたしも、納得できなかった一人だ。 今ならわかる。音楽はラジオと肩を並べる存在ではなく、ラジオから流れるものだ。だから明らかに、音楽は情報だ。でも、伝えたいことを乗せるという面で、音楽はメディアだと思いたかった。 音楽はメディアか 中学生の頃、触れた音楽を思い出してほしい。もし音楽が思い出せなければ、小説でも、アニメでもいい。この多感な時期に、創作物によって心を動かされた人は多いはずだ。 私が思い出すのは当時聴いていた国内のロックバンドだ。彼らの曲にメッセージ性のない曲なんてなかった。 偶然にもわたしのクラスには音楽をやっていた人が多かった。吹奏楽部員のみならず、バンドや、和楽器をやっていた人もいた。そして、人前で演奏することに対して、積極的だったように思う。  先の授業で「音楽はメディアだ」と主張していたのは、主にこういう顔ぶれだ。わたしたちは信じていた。音楽で受け取るものが多かったから、音楽は伝えるための手段になるということを。 その後、わたしの音楽に対する興味の範囲は徐々に広がった。音楽のために存在する音楽もたくさんあるということを、見渡せるようになった。音楽は情報であるということも、理解している。でも、あのときの熱い主張を裏返している現状が、何故かさみしく思うこともある。 でもやっぱり、メディアだ 先日、「左利きのエレン」というマンガを読んだ。 このマンガが人気な理由は、才能の残酷さを生々しく描いていることかもしれない。組織で表現をする葛藤かもしれない。人それぞれ、心を打たれるポイントは違うと思う。 でも、重要になっているのは、人と人の、また創作そのものでの、対話だ...

近況

うれしかったもらいもの 母からクリスマスカードをもらったのだけど、たまらん。 #hallmark #card #noel #xmas Saé ONOさん(@biiibibi3jpn)がシェアした投稿 - 2017 12月 7 6:19午前 PST これは同じ学校の友達にもらったイタリアのお土産なんだけど「中にコーヒー入ってるから食べるとき気を付けて!」って言われたんだけど、本当に液体のコーヒーが入ってて、おいしかった…😌✨ pic.twitter.com/IQzKzwbcep — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月8日 自炊 ぶへへ pic.twitter.com/EUzVOuq05x — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月9日 つくった〜美味しかった☺️ pic.twitter.com/9ObfB8o1HR — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月2日 料理するぞ〜!って思うと、めんどくせ〜!って思うけど、型抜きをしよう〜と思うと、型抜きしよ〜って思って黙ってキッチンに立って黙々と料理を始められる不思議よ…… pic.twitter.com/GlaM5D44wl — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月8日 Spotifyからわたしへのおすすめ こういうのすき LITEのEcholocation https://t.co/MfSn0xzWIK #NowPlaying — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年11月27日 初めて聴いた よき  tricotのE https://t.co/76vNz8P5QO #NowPlaying — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年11月27日 Spotify、わりと好きなやつ流してくれてかしこい。これも初めて聴いた。よき。 toeのGoodbye https://t.co/lS98MAzQhL #NowPlaying — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年11月27日 クロード・ドビ...

カウンセリングに行きました。そのに

カウンセリングのはなしです。自分の思ったことを書くだけの、日記です。 前回は ここ 。自分への取材手帳のリレーnoteにも、思っていることを書きました。 心の健康問題|オーノサエ|note 先週からカウンセリングに通い始めました。ちょっとした悩み事が、いつのまにかみるみる大きくなってしまって、 日記 ぼんやり起きて、行きたくないなと思いながら、カウンセリングに向かう。急ぐときは、必ず電車が遅れる。今日も今日とて遅刻。申し訳なく、なさけない。 往路で考える。なんで遅刻をするのか。遅刻をしないときはどういうときなのか。遅刻をしないとき、だいたい、すごい前からいる。大学の時は、サックス部屋というたまり場みたいな練習室があって、そこで練習をしたり、お茶を飲んだりしていた。なので、そこにいるときは、授業の遅刻をしない。最初から寄り道することを前提に行動すればいいのか、ああ、そっか。それでいいんだ。そうしよう。 カウンセラーさんとお話しする。今日はなんてことない話ばかり話してしまった。泣いてない。毎回泣くような大事ばかり話していたらくたくたになってしまう。 「なんか、自分は気にしていて、みんなは気にしてないような気がするんですよね」とか、思っているのか思っていないのかよくわからない、ちょっとだいぶニュアンス違うしこれは絶対違うな、と思ったけど言ったら、 「それは違うと思いますよ、そうだったらカウンセラーなんていらないですからね」と、当然の答えをいただいて、わたしも「ですよね」と答えた。ちょっと笑った。 次から、メソッドを使って、具体的に治療をしていく。説明を聞いていておもしろそうだったので、楽しみ。 記憶 たとえば、おいしいものを食べた15分間と、演奏を聴いて衝撃を受けた15分間、時間としては同じなのに、衝撃を受けた記憶のほうが強く残ってしまう。それを、均一にしていくエクササイズをするのだそうです。 ああ、たしかに、記憶の中の比重って不思議だな。 考えること 前回のセッションから、自分のだめなところ、いやなこと、ひたすら思い出して、ひたすら自己否定でした。だから、今回、ひたすらつらいことを掘り起こしていくだけじゃなくてよかった。なぜかたぶん、普通の話しかしてない。 いまのわたしの、ぐだぐだだるだるの現状を言っても、ちゃんと休みなさい、と声をかけ...

2017/12/10

2017/12/10 受験の願書をそっと消す。ワンクリックで。数ヶ月前のわたしが今のわたしの姿を想像できただろうか。本気を出せば1ヶ月で人は変われる、とはいうものの、変われない1ヶ月が何度も繰り返されました。ごめんね。 この、やる気のなさの根の深さ、すごく深くて、芋掘りみたいに、掘っても掘っても何か出てくる感じ、気持ち悪くて、なんだか。やる気を出そうとするほど、そのエネルギーは気力のなさに掛け算されて、どんどんマイナスが増幅されて、どんどんだめになっていく自分、おいおい、 芋掘りは大好きなんですけど、何年もやっていない。畑仕事してえよ。 こんな状態では、何もできない。何もできないと決めつけているから何もできないのか、何もしたくないから何もできないと決めつけているのか。どうせ後者だろう。わたしはどうせうまくはならない、みたいな、全て捨てて楽になりたい諦めと、わたしはどうせ信頼がない、誰からも必要とされない、みたいな、過去の自分への恨みで、将来の希望が持てない。必要とされないなら必要とされる人になればいいんだよ、みたいな反論が頭の中で沸き起こりますが、そういう、感情をねじ伏せる呪文みたいなものに、ちょっと頼り過ぎた気がします。共感をするとわかった気になりやすい。自己啓発ばっか読んでるお前は誰なんだよ。 自分が昔書いたブログの一部を消す時にバックアップを取っていた、それを読んだけど、人に勇気を与えられる人になると書いてあった。お前は強いな。それに比べてわたしは。ああ、同じ人だったな。とても人に見せられる文章でもなく、恥ずかしいのだけど、恥ずかしい文章を恥ずかしげなく晒すということをしないと誓ったのはそう遠くない日のはずなのだけど、結局今も既にこうやってだらしない言葉を並べて、同じことやってる 誰かに哀れんで欲しいわけでもなく、心配して欲しいわけでもなく、でもわたしはこれから強くなるときめたので、こうやってぐしゃぐしゃな自分も記録として残しておきたいのです、みたいな強がりで盛大に弱る。そうして汚い文章を書いて、晒して、ださい自分こそ美しいと、酔うわけです。酒と一緒じゃねーか。 先生にメールしなきゃいけないのにしていない。しない。しなければならない。したい。何故かくたくたで、理由も話せずに、泣く姿しか見せることができず、嫌だ、泣きたくて先生に習ってるわ...

死んじゃだめだってもっと簡単に言ってくれ

生きてるだけで偉いよって言ってくれる人がいて、死んじゃだめだよって言ってくれる人がいるからわたしも生きていけるので、誰も死んではならぬ — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月8日 音楽とか、動物の動画とか、絵とか、言葉とか、笑いとか、誰かからのいいねとかのおかげで、別に世界がひっくり返る大逆転劇が起こるわけじゃないけど、「今すぐ死んでやる!!!!」と思った時に、そういうもののおかげで「あと少しだけ生きてもいいかな」にひっくり返るのだから、そりゃ価値あるだろ — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月8日 と思うのは、わたしも昨日、いいねを飛ばしてくる方に救われたから。それから、香取慎吾さんの「死んじゃダメだよ」というツイートや、大森靖子さんの「やり過ごすだけで何か変わるかも」というツイートのことを思い返したりしたりしたから。 死んじゃダメだよ.テキトーでいいんだよ — 香取慎吾 (@ktrsngofficial) 2017年11月23日 おはよ やり過ごすだけでもなんか変わるかも〜がんばろう — 大森靖子🌏 (@oomoriseiko) 2017年12月7日 やり過ごすだけでいい、解決しなくても。なんとかなるかもしれない。だから死んじゃだめだって。言葉を目にしたすぐそのタイミングで救われるとは限らないけど、それが心に留まっていると、本当にダメだって思った時に思い出せたりして、救われることもあるんだって、そんなことを思いました。  ツイッターの通知欄にぴょこりと青い数字のバッジが見えると、マイナスになっている気持ちに、少しだけプラスの気持ちが加算される。お菓子を食べてもご飯にはならないのと同じで、ちいさなものを取り入れたからといって、それひとつだけで人生が劇的に変わるとは言い切れないのだけど、少しだけ上向きになる、そういう効能はもう少し認められていいんじゃないか。 「いいね乞食」とか「インスタべーション」とか、いいねが欲しいのは承認欲求丸出しで格好悪いことだ、というような空気ちょっとあるけど、たとえ格好悪くても、その人にとってプラスになるならいいじゃないかべつに。だいたいTwitterにしろInstagramにしろ、いいねが集まる投稿をする...

マメに手入れすれば咲き続ける

ずっと、部屋にお花を飾れたらいいな、と思っていた。買おう買おうと思っていたのだけど、花屋の前に来ても思い出せなかったり、なんだか気恥ずかしくて買えずにいたのだ。 やっと、先週の月曜日にバラの花を買った。スーパーの生花コーナーに置いてあって、目が合ってしまった。 そのバラの切り花には、6日間は花が枯れない薬品も一緒についてきた。でも、毎日水を変えたいと思っていたので、使わなかった。毎日水を取り替えて、昨日でちょうど10日。今日は11日目だけど、まだ枯れてはいない。 花の枯れない水は、水を取り替えてはいけないのだ。もし6日間枯れずに保てたお花がその後どうなるかはわからない。薬品を使わずに、花を枯らさずに保てたことは小さな自信になった。自分のご飯を食べることすら忘れる私でも、毎日花瓶の水を替えるということが、できるのだ。 水を変えていたら長持ちするなんて、当たり前のことだ。でも、そんなことから、わたしの日々の小さな行動の積み重ねが、自分を保っているのだということに気が付く。 6日持てばいいかな、と思っていたので、もう枯れるかどうかハラハラすることもない。 外側の花びらに皺が現れて、花びらのふちから徐々にみずみずしさが失われていく。これからバラの花は徐々に枯れていく。でも、焦ることなく、淡々と変化を楽しめるような気がする。生き物だもの、変化を楽しむところまでが、花の命だと思っている。 時間がゆっくり流れてくれるような気持ちになる。どうか、少しでも長持ちしてくれますように。

カウンセリングに行きました

あまり面白くないと思うけど、心情の変化を書いておく日記です。読んでくださる方への思いやりゼロです。あらかじめご了承ください。 序 前もってカウンセラーさんに連絡を取って、予約してもらった。カウンセリングに行こうと思ったのは、もういろいろだめだったから。いろいろだめだったのは今に始まったことではなく、結構誤魔化しながらやってきたと思っていて。もう誤魔化せないところまで来たな、というところだった。実際にいろいろ、破綻している。 出かける 朝ご飯食べるのを忘れて、大事にとっておいたレモン味のポッキーをかじりながら、電車に乗って向かう。スマホがバグって、充電が70%はあったのに、電源が付かなくなる。 結構遅刻してしまって、そのまま案内されて座ってお話しする。「なにからでもどうぞ」と…そういわれると難しいと思ったけど、普通にお話しできました。 初めての人にペラペラ話せるのか 話すのがちょっと苦手なので、言葉は詰まったけど、内容は気兼ねなく話せた。 以前、婦人科系の病院に行った子が言っていた「性器を物として見ている目だから見せても恥ずかしいのはこっちだけで、全然平気だよ」というセリフを、小耳にはさんだことがある。気持ちは、それと一緒だった。カウンセラーさんは、わたしをかわいそうだとも思わないし、別に評価をしたりしないし、感情的にも見ない。だから何を話しても大丈夫だし、唐突に泣いてしまっても大丈夫だ、と思えた。 これ言ったら、こんな風に思われるかな~とか、普段ならそう思うこともすらすら話せた。言葉に詰まって無言の時間になっても、この時間はわたしがお金で買っている時間なのだ、焦らなくてよい、大丈夫だ、と思っていた。まあ、ひどいクライアントだと思う。 カウンセラーさんはメモを取りながら「これってこういうことですか?」「どうして~なんですか?」と、興味とかではなく、わたしが見えていない部分を、ひとつひとつ尋ね返してくださるので、話していると整えられていく。 しかも、言葉の角がない。ああ、プロだな…!すごい…!と思った。 正直、話して何が変わるのか、と思っていたけれど、「ああ、そういえば、こんなこと思ってたのね…」というようなことが沢山あった。自分のことって、あまりわかっていないものだ。 助けられたこと ずっとこの状態が続くわけじ...

感じたことを言葉にする練習@Twitter

ブログを書き始めてから、日々、語彙のなさに落ち込む。 フランス語はもっと覚えなければいけない。圧倒的に、知っている単語が少ない。 日本語は、 言葉にして出すことで磨かれるような気がしている。それは、練習あるのみだろうから、数をこなしていくつもり。 どうやって?Twitterで。 Twitterのいいところは、文字数の制限があるところだ。 無駄な言い回しを省いて、簡潔に、かつ自分が感じた感覚と一番近い言葉を選ぶ。感じたことを文字に起こすことすら、こんなにも時間がかかるのだ。140字なのに。  感覚を頼りにしているので、感覚を研ぎ澄ませることが大切だと思った。気づきの視点を増やさなければ、たくさん書くことはできない。 まずは誰かの言葉に対する感想を、自分の言葉で。御世辞にもよく書けたものだとは言えないけれど、練習を続けます。慣れてきたら音楽のように非言語的なものを、自分の言葉にしたい。 料理にとって加熱が重要なように、なにかを形にするために、情熱はとても重要なのだと、改めて。 あたたかさのまわりに人が集まるのはこの世の摂理なのか、わたしもまた、kotomiさんから紡がれる あつくなめらかな言葉に、引き寄せられている一人です。 #自分への取材手帳 https://t.co/sTc4HWdVa4 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月1日 #自分への取材手帳 リレーコラム、着々と。きょうは、奏さん。ご自身では「クセが強い」とおっしゃっている文章、わたしにはとても澄んだ表現に感じます。日常風景の切り取り方は、まるで歌詞のようです。 当たり前にそこにあるもの。|奏|note(ノート) https://t.co/H4ejM7ikU0 — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月2日 そういえば、音速ラインの曲には、風が吹いている歌詞が多い。藤井さんにとって心情を切り取るためのハサミは風なのかもしれないとか、今更そんなことに気が付く。「答えは君と風の中」だなんて。ずるい。窓開けよう。 音速ラインの答えはいつも https://t.co/TgWSBVIvj4 #NowPlaying — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) 2017年12月3日 ...

向き合いたくないことと向き合う12月に

 タイトルの通り。 「そうしたい」というのもあるけれど、「そうなりそう」というのもある。そうしなければそろそろ進めない、ということは何度も思い続けている。 思えば高校生ぐらいまでは、だめになってしまっても、黙ってルールに従うことさえできれば、なんとかなっていた。嫌いだったルールが多かったが、全てが悪いわけでもなかったのだと気付く。その反面、何とか形になってしまうことで、見過ごしてしまうこともある。 大学生になって、自由の中に放り出される。さらに、留学ともなれば、もっと自由度が高くなる。自分を律することのできる人が、生き残る。生き残れなかった私の頭は、まるで溶けている。考えたくない事柄を考えたくないというだけで、誤魔化して過ごしてきた。考えなければならない場面に突き当たれば、唐突に涙が出る。この文章を書いている今も。涙は自他ともに、物事を複雑に感じさせるから厄介だ。 全ての弱音は「自己管理のなさ」という欠点として集約される。 「自己管理ができず、申し訳ありません」というフレーズを使いたい場面がどんどん増えていく。ギリギリだったバランスが崩れ、生活も心も、全てが、だめになる。 自転車はペダルがなくても坂道を下ることができる。上るときはペダルをこがなければいけない。私含め、崩れていく人はペダルのない自転車で坂道を登ろうとしているようなものだったのだ。そうだ、乗り物を変えよう。 自分と向き合うのは、しんどい。 でも、変えたい部分と自分はイコールではないし、自分を変えることも自己否定ではない。何か指摘されることは悪いことではないし、人格否定でもない。 私が乗っていたものは壊れた自転車かもしれないし、三輪車かもしれない。それはセグウェイで代用できるかもしれないし、マウンテンバイクに替えられるかもしれない。 だから、まずは何に乗っているか知り、次に、なにに替えられるか知ることだ。 遅刻魔でも、返事が遅くても、挨拶が苦手でも、変わりたいと思っている限り、何度でもやり直せる世界であってほしい。甘えかもしれないけど、そういう世界をつくりたい。そのためにわたしは変わりたい。

11月29日は、パリ管弦楽団を聴きに。

出遅れて後半からしか聴けずでしたが、昨夜はパリ管弦楽団の演奏会へ。ショスタコーヴィチかっこよかったです。耳をすまさなければきこえないほどのpp、あざとい。 pic.twitter.com/IMPEmLtLma — オーノサエ🎷 (@biiibibi3jpn) November 30, 2017 パリ管弦楽団を聴きに行きました。 曲目は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチの協奏曲第7番《レニングラード》でした。 パリ管のTwitterで諏訪内晶子さんのリハーサルの動画を見かけて、「これは行かなければ!」と思ったのに、ちょっとぎりぎり間に合わなかったです。ざんねん。 #CONCERT Nous sommes heureux de retrouver notre précédent directeur musical @paavo_jarvi pour deux belles soirées symphoniques ! Akiko Suwanai y interprètera le Concerto pour violon de Sibelius sur son #Stradivarius "Dolphin"🎻 @philharmonie pic.twitter.com/oppw0gMF2j — Orchestre de Paris (@OrchestreParis) November 29, 2017 でも、そうして間に合わなかった人たちが、椅子をホワイエのスクリーン前に並べて鑑賞する風景は、なかなかなごやかでした。 バーカウンターで飲み物を買ったり水をもらったり、足組んでパンフレットを読んだり、みなさんまったりと、中に入れるのを待っていました。 この場に居合わせた人たち、スタッフさんも、お客さんも、いい意味でゆるかった。なんだか安心します。 ショスタコーヴィチの7番は、初めて聴きました。 これほど長いともう、モチーフがなんだとか、一度聞いただけではよくわからないかも(体調のせいで集中力もイマイチだったことも、余計に)。 でも、それぞれの場面場面で、はっとする音、音の掛け合いがあって。 その場その場を切り取っても楽しめて、それがすごいなあと。 ピッコロのソロがすごくす...